2020年4月16日 (木)

【ぷち暗渠】南長崎5丁目の暗渠

表題はこのようにしたものの、これも手許の古地図では確認が取れません。
もしかしたら、水路跡ではないのかも。

▼地図(goo地図から拝借)

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▼1947年の航空写真(goo地図から拝借)

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歩けるのはA地点からB地点まで。B地点~D地点間は立ち入ることはできません。

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▼A地点から北方。割烹と酒店の間に、人ひとり通るのがやっとの通路があります。

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▼A地点→B地点

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▼空き地。長崎銀座にある笠間稲荷の裏手にあたります。

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▼B地点から南方

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▼B地点の北側

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敷地の形や豊島区の境界標を見る限り、さらに北の方に続いているのかな、とも思われますが、宅地に埋もれて立ち入るのは無理。

(2020/3/22)

【ぷち暗渠】長崎3丁目暗渠(谷端川)

散歩の途中で見つけたもの。
手許の古地図では確認できなかったのですが、過去の航空写真を見る限り、谷端川につながる水路のひとつと思われます。

▼地図(goo地図より拝借)

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上図右の縦の線は谷端川の跡。

▼1947年の航空写真(goo地図より拝借)

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今回は、A→B→Cの順に歩きましたが、Aより東の方にも水路が続いているように見えます。
地図にも、ところどころ痕跡が見て取れますが、宅地に埋もれて立ち入るのは難しそう。

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▼A地点から西方。

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▼A地点→B地点

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豊島区の境界標。

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▼B地点から東方

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▼B地点から西方

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▼C地点から東方。

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▼C地点から東方。

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終点は区立長崎公演。1947の航空写真では農地のようで、ここに水源があったのではないでしょうか。

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(2020/4/14)

2020年4月12日 (日)

【ぷち暗渠】旧籾山牧場の水路跡(旧千川上水→妙正寺川)

きょうも近所を散歩。

南長崎6丁目で、旧千川上水が直角に曲がるあたり。戦前の地図に「籾山牧場」とあり、千川上水の支流が書かれています。

▼1920年頃(東京時層地図から拝借)

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▼1932年頃(東京時層地図から拝借)

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この頃、目白通りは作っている途中。F地点あたりまで開通していて、この部分の水路は埋めて分断されたのか暗渠になったのか。

▼1955年頃(東京時層地図から拝借)

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水路を示す水色の線は、目白通り以北では消滅しています。

▼現在(東京時層地図から拝借)

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目白通り以南の水路も消滅。

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▼A地点から東方。

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千川上水はこの交差点の手前から左へ。今回たどる籾山牧場の水路は直進。

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▼B地点。ここで不自然に道が狭くなります。上の写真で中央の車が止まっているあたりは、まさに水路跡か、と。

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B地点から西方。

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B地点から南方。扉の向こうはマンション付属の自転車置き場です。おそらくこれが水路跡。

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ここに立ち入るわけにはいきませんので、公道を迂回。

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▼C地点。住宅に埋もれて、水路跡を確かめることができません。

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▼D地点。ガソリンスタンドの左端あたりかと思われますが、ここも確認はできず。

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▼D地点→E地点。目白通りを渡って南側から北方。水路は目白通りに埋まっていますが、道路を斜めに突っ切っていたか。

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▼E地点から東方。左は目白通り。右前方の細い道が区境で左は豊島区南長崎6丁目、右は新宿区西落合4丁目。これが水路跡か、と。

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▼E地点からF地点へ。水路跡の雰囲気がありありと。

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▼F地点から西方。     

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▼F地点。左下が新宿区の、右上が東京都の境界標。水路の幅の手がかりになる、かな?

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▼F地点から東方。

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▼G地点手前の不自然な空き地、不自然な緑地。

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▼G地点から南方。ここからさらに水路は続き、目白学園の脇を通って、上高田運動公園のあたりで妙正寺川につながります。

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そちらのルートはずいぶん前にたどって写真もあるはずなのですが、まとめてないですね。なんでだろう。

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ところで、籾山牧場は、昭和初期にはすでに見当たらなくなっています。牧場として存在したのはごく短い期間で、その後宅地として分譲されたとのこと。一方で、併設の牛乳工場は、のちに明治乳業豊島工場として最近まで操業していたとのこと。A地点のあたりに記念碑のようなものがあるようですが、見落としています。

籾山牧場:豊島区の牧場
https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000109

牧歌的な「牧場分譲地」
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2008-09-15

(2020/4/12。一部の写真は3/22)

 

2020年4月 8日 (水)

【錦糸町界隈】錦糸町の貨物駅にまつわるメモ

普段なら手が出ないカテゴリの雑誌、「Vintage Rails 2020 Vol.2」(イカロス出版)。

特集の一部で「錦糸町の8620」という記事が。

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この時代の錦糸町を知っているわけではなく、貨物線の跡地に立つアルカタワーズやロッテ会館(現在はロッテプラザホテル錦糸町)の風景に、●で面影はありません。

識者がネットで提供してくださる資料の中には、貴重なものも少なくなく、こちらのページには前記の記事とほぼ同じ時期の配線図が掲載されています。

国鉄 停車場 配線略図
http://railwaytrackdiagrams.web.fc2.com/chiba/kinshicho.html

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上記の記事で、アスファルトを積むタンク車の写真が掲載されており、上に引用した写真でバックで進行する蒸気機関車が牽引するタンク車もそれにあたります。

Wikipediaの錦糸町駅の記事によれば、当時、錦糸町貨物駅からは2つの専用線が出ていることになっていて、一方はシエル石油の、もう一方は東京日産化学のものとされています。

上のリンクの配線図では、左の方にシエル石油の専用線が明記されています。専用線の北側には、以前はシエル石油東京油槽所がありました。現在は、コモディイイダやマンションが建っています。

もう一つの東京日産化学の専用線は、配線図には見当たりません。同社の工場は江東区大島一丁目で、むしろ(旧)小名木川駅のすぐ近くです。錦糸町から延々と専用線が伸びているとは考えられません。

配線図をもう一度よく見ると、左上の「埋立」とあるあたりに、専用線を示す短い点線があり、これが東京日産化学の専用線ではないかと思われます。おそらくはここでトラックに積み替えて運んだのではないでしょうか。

ちなみに、東京日産化学の工場については、昨年記事を書きました。

釜屋堀工場(日本石油精製→小倉石油)
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-98a895.html

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シエル石油のアスファルトは、昭和四日市石油で製造されたものが運ばれてきたそうで、鉄道ピクトリアルの貨物輸送の特集号に写真がありました。

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錦糸町駅の北側に貨物線が広がる当時の地図。

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Vintage Rails (ヴィンテージ・レイルズ) VOL.2 (イカロス・ムック)
https://www.amazon.co.jp/dp/4802208049/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_soxJEb9XJJ1HP

鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション24 貨物輸送1960~70 2013 02月号 [雑誌]
https://www.amazon.co.jp/dp/B00AU5CACQ/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_lpxJEb58ZSY74

発掘写真で訪ねる墨田区、江東区古地図散歩~都電が走った下町の街角~
https://www.amazon.co.jp/dp/4802131526/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_6mxJEbBKF5RR7

(2020/4/6)

 

【ぷち暗渠】南長崎1丁目の暗渠

新型コロナ感染症対策で在宅ワークに移行して4週目に突入。
気分転換と運動不足の解消、生活必需品の買い出しのための夕方の散歩は継続中です。

コースは椎名町方面、東長崎方面を日替わりで、コースは行き当たりばったり。

先日は、南長崎1丁目の暗渠に立ち寄って写真を撮ってきました。

誓願寺の隣にある駐車場[A]。その奥に見える細い道が、ぱぱすの裏を通って[B]、山手通りに突き当たります[C]

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地図はgoo地図です。上図の[A][B][C]を1963年の航空写真に重ねると、うっすらと黒い筋が見えます。
省略していますが、1947年の航空写真でも同様です。

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▼[A]地点から東方。

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▼[A]→[B]

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▼[B]地点から西方。

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▼[B]地点から東方。

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▼[B]→[C]

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▼[C]地点から西方。このあたりが最も雰囲気のあるところ。
 上の写真で左側の小さい建物は、以前は自動販売機が設置されていましたが、ながらく空き家になっています。
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▼[C]地点から東方。山手通りの夕方の渋滞です。

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(2020/4/6)

 

2019年12月30日 (月)

【神谷町界隈】旧麻布郵便局(旧逓信省簡易保険局)と我善坊町

今年2月まで通っていた神谷町の仕事場の近く、旧麻布郵便局を、裏手から撮影。

2月上旬の撮影で、3月には解体工事が始まるところだったので、もう跡形もないのかな?

話題の超高層ビル群が建つあたりです。

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手前は我善坊谷で、このときは新旧の住宅と空き地が入り交じる状態。いまはどうなっているやら。

旧麻布我善坊町で現在は麻布台一丁目。

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パラパラと眺めていた写真集に、おそらく同じ場所から撮影されたものと思われる写真を発見。1964年12月の撮影とのこと。

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2019年6月 8日 (土)

釜屋堀工場(日本石油精製→小倉石油)

以前、石油元売の変遷図を作ったときに、いくつかわからない箇所があって、これもそのひとつ。

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小倉石油店は、のち小倉石油(株)になり、1941年に日本石油(株)に合併されます。日石の社史で、「1895(明治28)年に、日本石油精製の釜屋堀工場を買収。」とあり、それに基づいて上図のようにしました。

四角の中には会社名を入れたいのですが、当時「日本石油精製」(1951年に設立された会社とは別)についてはさっぱりわからず、釜屋堀工場についても、場所すらわからなかったような気がします。やむなく上図のように、四角の中には工場名を、会社名は括弧書きにせざるを得ませんでした。

先日参加したフィールドワーク「関東震災時 朝鮮人虐殺地を歩く」で、本筋とは関係ないですが江東区大島の当時の様子を紹介するものとして、「小倉石油株式会社東京製油所」の写真が紹介され、変遷図のことを思い出しました。

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このあたりの昔の地図を見ると、確かにあります。猿江恩賜公園の川を挟んで東側。

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そこで、不意に思いあたって、以前から手許にある「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」をみると、ありました、「釜屋堀」が。なんで当時この本にあたらなかったのか…同書によれば、横十間川の別名として「竪川から小名木川の間を釜屋堀ともいう」とあります。フィールドワークで紹介された写真は、間違いなく「釜屋堀工場」です。

さらに、国立国会図書館のデジタルライブラリで検索すると・・・あっさり見つかりました。

▼村上太三郎伝(1939)

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▼日本石油史(1914)

ダウンロード - e697a5e69cace79fb3e6b2b9e58fb2_pp626428e794b0e4bba3e8998ee4ba8ce9838e29.pdf

▼明治工業史・鉱業編(1931)

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よれば、日本石油精製(株)は、1896(明治29)年10月に設立、釜屋堀の田代虎二郎の製油所跡地(以前は火止油、灯台油を製造)に石油精製所をもうけたもの。日本石油精製の設立には小倉常吉らが関わっているが、釜屋堀工場は後に小倉の個人経営に移行し、会社は新潟に生産の本拠居を移したものの、経営不振で解散、とあります。

変遷図を作った頃にはデジタル化されてなかったのかなー?

ともかくも、変遷図は下記のように修正しました。

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変遷図の全体は、こちらにアップしています。

http://egotadp.biz/sekiyuMotouri/index.htm

2019年6月 5日 (水)

【ぷち暗渠】谷端川の支流

  病院で出された薬ができるのを待つ間に、谷端川の支流跡をたどりました。

参考にした地図はこちら。「東京時層地図」の「昭和戦前期」のもの。

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A地点。左右の道路は目白通り。道路の南側から北方を。

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A地点から北方。通りが筋交いになっていますが、道幅=川幅ではないでしょう。

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流れを想像するのは、ちょっと難しいです。

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さらに進むと路地に。たぶん暗渠になる直前の川幅はこんなものでしょう。

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突き当たりは区の施設で、通り抜けることはできません。迂回します。

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迂回しました。上の写真の反対側で南方を。

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同じ位置で北方を。まもなくゴールです。

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B地点で東方を。谷端川の下流方向。

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同じ地点で西方、上流方向を。奥に見えるのは山手通りの陸橋。

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B地点で南方を。右手の施設は、以前は豊島区立真和中学校でしたが・・・

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現在は別の用途に。

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旧・道和中と旧・真和中がに統合され、2005年4月に西池袋中が旧・真和中(上の写真)で開校。旧・道和中の改修工事が完了し、翌2006年4月に西池袋中が移転。つまり上の写真の西池袋中学は1年限りだった、ということ。

谷端川の本流も、B地点付近では面影はありませんが、道路の形は川の流れのままで、もう少し北方(下流方向)に進むと公園として整備されています。

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ところで、地図ではA地点から先がどうなっているのかはわかりません。この頃の地図は、区境が水路と同じ薄い青色でなぞられていて、区別がつきません(たぶん豊島区と新宿区の境は水路ではないと思います)。

ネットで見つかる他の記事では、A~B間の途中で西に折れて進んだ先が水源地、とする記事もあります。確かに水路跡とおぼしき細道が西の方に進んでいるところもあります。

A地点から南方を見ると、つながっているようには見えませんが、このビルの先は谷になっていて、もしかして川跡?と思わせるような風景も見えます。そしてその先には妙正寺川が。

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上の地図と同じ範囲の「関東大震災直前」のもの。上の地図とは10年ほどの違いしかありませんが、まるで雰囲気が違います。

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田畑が目立つこの地域が、関東大震災のあと急激に宅地化し、それまで農地を潤していた水路をひとまずとりまとめられたが、わりと早い時期に暗渠になった、と見るべきなんでしょうか。

2019年2月11日 (月)

【神谷町界隈】芝区商工信用組合にまつわるメモ

芝久保八幡神社の参道の欄干。

 

1951/6/15 信用金庫法の施行にともない「芝商工信用金庫」に改組、改称。

1961/7/2 城南信用金庫に事業譲渡して解散(7/4 解散公告)

 

 

信用金庫の歴史と城南信用金庫の歩み

https://www.jsbank.co.jp/about/history/main.html

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2019年1月27日 (日)

【椎名町界隈】「東京パン」にまつわるメモ

西武池袋線・東長崎駅の南口は、西友の改築で絶賛工事中ですが、少し椎名町駅寄りのほうに、古びた建物があって、ずっと気になってました。元は1軒の店舗のようですが、現在は棟割りにされて賃貸しされています。ながらく空き状態の区画もありますが、飲食店は盛業中です。

 

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建物の上部にうっすらと「東京パン」と見えます。「東京」も「パン」も、単語としては一般的すぎて、ネットを検索しても何にも引っかかりません。せめていつ頃までパン屋さんとして営業していたか、ぐらいは知りたかったのですが…

 

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先日、ライブ参戦のために新宿東口を出たところ、ここも工事中なのですが、防護壁に1932(昭和7)年当時の新宿の風景が。よく見ると、正面に「東京パン」(右書)の看板が。現在はヨドバシカメラ マルチメディア新宿東口があるあたりか、と。

 

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2階には「東京パン」「喫茶と御食事」とあります。

 

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「東京パン」というのは、パンの製造販売を主としつつも、喫茶、食事も提供するお店で、おそらくいくつもの店舗を構えているように思われました。

 

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改めて調べ始めてみると、日清製粉と関係がありそうなこと、中野区の鍋屋横町にも店舗があったこと、などがわかってきましたが、やはりネットだけでは限界ありそう。

 

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▼鍋横物語 (鍋横区民活動センター運営委員会)
└戦前の鍋横は中野の銀座
  http://nakano-nabeyoko.gr.jp/monogatari/chapter4/4-1-1.html
└昭和初期の鍋横交差点
  http://nakano-nabeyoko.gr.jp/monogatari/chapter4/4-1-3.html
└鍋横と東京パン
  http://nakano-nabeyoko.gr.jp/monogatari/chapter4/4-1-4.html

 

以上、とりあえずメモです。

 

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2019/11/10追記。

桑原甲子雄の写真集を見ていたら、1939年の渋谷の写真のなかに「東京パン」を発見。ハチ公口の対面、現在は渋谷駅前ビルのあたりと思われます。

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