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2018年2月

2018年2月25日 (日)

【きょうの調べ物】中野区上高田の住居表示と区画整理

【2018/2/25】

今週の昼休みは、「上落合」の記事に追記したように、あることの準備のためもあって、上落合三丁目をかなり細かく歩きました。闇雲に歩いていると、いつの間にか新宿区からはみ出して、中野区上高田に突入していました。そこで発見した門標。

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どちらの標識も、ずいぶんレトロに見えます。上のタイプは中野区内の別の場所で、下のタイプは豊島、中野、練馬で見かけたことがあります。個人が設置したのではなく、おそらくは自治体が配布して設置されたものと思います。

それがいつのことなのか、標識がいつのものなのか、というのが気になるのですが、標識にある住所は現在のものと同じなのです(「番地」という表現があるのはとりあえず置いといて。また、現在の住所は、実際には上高田一丁目7番XX号なのですが、それもとりあえず置いといて)。

現在の住所と同じということは住居表示が実施されたあと、ということになります(中野区は全域で住居表示を実施済)。

中野区の住居表示は一部の先行地域を除いては、1966(昭和41)年に実施されました。いつも参考にするWikipediaの「中野区の町名」のページを見ると、現在の上高田一~五丁目になったのは1966年で、その前身は上高田一・二丁目と昭和通一~三丁目の一部となっています。

▼上高田一・二丁目と昭和通一~三丁目 (東京時層地図)

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とすると、この標識は1966年以降設置されたことになりそうですが、それにしてはえらくレトロな感じがします。

他の地域では、下の様式と同じですが、住居表示が実施される前の住所が表示されているものもありました(中野区新井町、豊島区池袋東など)。

また、現行の住居番号表示板は、住居表示に関する法律(昭和37(1962)年5月10日施行)による「街区方式による住居表示の実施基準」(昭和38(1963)年7月20日自治省告示第117号)で定められており、住居表示の実施のあとに、それとは異なる様式の標識を設置するのも考えにくいです。

▼街区方式による住居表示の実施基準 別紙4 (官報 昭和38(1963)年7月30日)

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▽住居番号表示板(例)

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そこで、現在の上高田一~五丁目の住居表示が実施された告示を見てみると…

▼自治省告示第93号 (官報 昭和41(1966)年5月27日)

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わかりにくいのでテキストも。Wikipediaの記述とは異なり、住居表示前から上高田は一丁目から五丁目まで存在することになっています。

一 団 体 名 東京都中野区

二 実施期日 昭和四十一年二月一日

三 実施区域

                                           
 

町名

 
 

住居表示実施前の町名等

 
 

上高田一丁目

 
 

上高田一丁目の全域、昭和通一丁目の一部、昭和通二丁目の一部

 
 

上高田二丁目

 
 

上高田二丁目の全域、昭和通三丁目の一部

 
 

上高田三丁目

 
 

上高田三丁目の全域

 
 

上高田四丁目

 
 

上高田四丁目の全域

 
 

上高田五丁目

 
 

上高田五丁目の全域

 
 

新井一丁目

 
 

新井町一丁目の全域、昭和通三丁目の一部

 
 

新井二丁目

 
 

新井町二丁目の全域、野方町二丁目の一部

 
 

新井三丁目

 
 

新井町三丁目の一部、野方町二丁目の一部

 
 

新井四丁目

 
 

新井町三丁目の一部、新井町四丁目の一部

 
 

新井五丁目

 
 

新井町四丁目の一部

 

さらに、手許にある1964(昭和39)年の地図を見てみました。住居表示実施前ですが、上高田は一丁目から五丁目まであります。

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これで、この記事の最初に示した門標が、1966(昭和41)年以後のものではなく、それ以前にも存在しうることがわかりました。

では、上高田が一~二丁目から一~五丁目に変わったのはいつで、どうでしてなのか、というのが気になります。そこで、今度は官報検索サービスで、「中野区 上高田」だけをキーワードで検索、結果の一覧で上高田の三~五丁目を探してみます。

すると、こんな記事が見つかりました。住居表示実施の5年前に、すでに上高田三丁目が存在していたのです。

▼合併広告 (官報 昭和36(1961)年10月27日)

○会社その他の公告
合併公告
昭和三十六年十月二十日開催の下記会社株主総会に於て(甲)ホーム食品工業株式会社を(乙)黒田電工株式会社が吸収合併してその権利義務を承継し従つて(甲)ホーム食品工業株式会社は、解散する旨になつたことに決議したので右に対して異議のある債権者は、本公告掲載の日から二箇月以内にその旨を申し出られたい。
右商法の規定に従つて公告する。
昭和三十六年十月二十七日
東京都中野区上高田三の二九番地
(甲)ホーム食品工業株式会社
東京都中野区江古田一の二二九四番地
(乙)黒田電工株式会社

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さらに、同じ検索結果の少し前に、こんな記事を見つけました。何らかの事情で自身が営んでいた旅行代理店をたたむことになったので、都に預けてある保証金を返してもらいますが・・・という、いまでもよく見かけるものですが、住所に続いて「(区画整理に依り番地変更)」との記述があります。おそらくこの時期に上高田では区画整理が行われ、このときに町名・地番の見直しがあったんでしょう。

▼旅行あつ旋業営業保証金取戻し公告 (官報 昭和36(1961)年8月10日)

旅行あつ旋業営業保証金取#し公告
旅行あつ旋業法第二十一条及び旅行あつ旋業者営業保証金規則第七条の規定により次のように公告します。
昭和三十六年八月十日
中野区上高田二の九(区画整理に依り番地変更) 武谷 良治
一、(一)登録番号 東京都知事登録邦人第五四号
(二)住所及氏名 東京都中野区上高田二の九武谷良治
(三)商号 交友旅行社
(四)主たる営業所の位置及名称 東京都中野区上高田二の九交友旅行社
二、(一)登録年月日 昭和二十八年一月十二日
(二)登録まつ消年月日 昭和三十六年五月十一日
三、営業保証金の額 金五万円也
四、前号の営業保証金につき旅行あつ旋業法第十七条第一項の権利を有する者は、本公告の日から六箇月以内にその債権の額及び債権発生の原因たる事実並びに住所及び氏名又は名称を記載した申出書二通を東京都オリンピツク準備局観光部に提出して下さい。
五、申出書の提出がないときは、営業保証金は取りもどされます。
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そこで、中野区役所のホームページで「上高田 区画整理」で検索すると、このような資料に行き当たりました。1961(昭和36)年6月20日に「上高田の新町名地番実施」とあります。

▼中野区のおいたち (部分)

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中野区勢概要 平成27年度版(2015年度版)
http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/102500/d010287.html
中野区のおいたち
http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/102500/d010287_d/fil/06furoku.pdf

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もう、これで決まり!でいいでしょう。この記事の先頭の門標は、1961(昭和36)年から1966(昭和41)年の間(おそらくはその最初の年)に設置されたもの、といっていいと思います。

これらの古い様式の表示板はたまに見かけるのですが、住居表示実施前のものだったり、あと(のように見える)ものだったりがあって、時期が特定できないでいました。これで、ほぼ確実に住居表示実施前のものだということがわかり、大いにすっきりしました。なんの役にも立たないけど・・・

 

 

2018年2月24日 (土)

【きょうの調べ物】旧・飯田橋労働基準監督署

中落合のお宅、以前はなにかのご商売をしておられたもの見受けられます。

▼軒先に3つの門標。上から2番目はよく見かける家屋調査済証。上は「青色申告研究会会員」、下は「飯田橋労働基準推進会 会員章」とあります。

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「労働基準推進会」というのは、おそらくは労働基準監督署の関係団体で、このお宅のご商売も、使用人を雇ってのものだったのでしょう。ネットで検索しても、しかとした答えは見当たらないのですが、この団体の前身のひとつではないか、と推測しています。

中央労働基準協会支部 | (公社)東京労働基準協会連合会 
http://www.celsa.or.jp/

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「飯田橋」というと職安(公共職業安定所)が浮かびますが、労働基準監督署もあったのか、と思われ調べてみると、現在は存在しません。新宿区を管轄する労働基準監督署は東京労働局管下の中央労働基準監督署で、飯田橋(飯田橋合同庁舎=文京区)に所在します。

労働基準法の施行まで遡ると、飯田橋労働基準監督署が文京区にあって、新宿区、文京区を管轄しています。中央署は中央区にあって、中央区、千代田区、大島、小笠原島、三宅島、八丈島を管轄するとあります。

▽労働基準法施行規則 別表第三 (官報 昭和22(1947)年8月30日号外)

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その後、中央労働基準監督署が中央区から千代田区に移転。

▽労働基準法施行規則を改正する省令 (官報 昭和27(1952)年11月1日)

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小刻みに改正されていた別表第三が、2年後に一新されました。中央署、飯田橋署とも記載内容に変更はありませんが、中央署が管轄する小笠原島が手書きで消されています。

サンフランシスコ平和条約の発効(1952(昭和27)年4月28日)から、変換された1968(昭和43)年6月26日まで、日本の施政権が及ばなかったことを示すものでしょう。後に訂正されています。

▽労働基準法施行規則を改正する省令 (官報 昭和29(1954)年7月15日)

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▽正誤 (官報 昭和29(1954)年12月27日)

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1989年に飯田橋労働基準監督署は廃止され、中央署に引き継がれました。このとき、中央署の管轄は「中央区、千代田区、大島町、八丈町、利島村、新島本村、神津島村、三岳村、御蔵島村、青ヶ島村」とあり、小笠原がありません。

小笠原の復帰にあたり、当時の自治省に小笠原総合事務所が設置され、労働基準監督署が鑑賞する業務を含む行政事務を統括することになったためです。小笠原総合事務所はその後旧・国土庁に所管が移り、中央省庁再編により現在は国土交通省の管轄になっています。

▽労働基準法施行規則の一部を改正する省令 (官報 平成元(1989)年3月31日号外)

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その後、中央省庁再編で労働省が厚生労働省になると、労働基準監督署の設置に関する規定も、労働基準法(労働基準法施行規則)から、厚生労働省設置法(厚生労働省設置規則)に移り、現在に至ります。

▽厚生労働省施行規則 別表第四 (官報 平成12(2000)年8月14日号外)

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・・・と、飯田橋労働基準監督署の過去をひもといてみたものの、やっぱりなんの役にも立たない情報でした。

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厚生労働省 東京労働局
http://tokyo-roudoukyoku.jsite.mhlw.go.jp/home.html

労働基準監督署
http://tokyo-roudoukyoku.jsite.mhlw.go.jp/kantoku.html

国土交通省 小笠原総合事務所
http://www.mlit.go.jp/ogasawara/syoukai/syoukai.htm



2018年2月18日 (日)

【お昼休みに暗渠】神田川(旧神田上水)の流路変更

(承前)

【お昼休みに暗渠】谷戸川の支川
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-284a.html
【お昼休みに暗渠】中野区小滝町の煙突
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-8ff0.html

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痕跡を見つけるのが難しそうな谷戸川の支川をたどるために、新旧の地図を見比べていて気づいたのですが、神田川(旧・神田上水)の流路変更の名残がいまに残っているように見受けられました。

▽左は大正期、右は戦前期の地図。流路変更は戦前にはほぼ終わっていて、旧・東中野小学校(現在、中野三中があるところ)は、だだっ広いはらっぱだったそうです。

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▽戦前期の地図にある変更前の流路の名残をなぞって、戦後期の地図と合成。緑色の線のあたり、旧流路の内側が空き地のままだったり、旧流路の部分を避けて建物が建っていたり。

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▽最近の地図と合成。新宿区側は旧流路の面影はなさそう。一方、中野区側は、建物の向きが、神田川を基準にして平行でなかったり、垂直でなかったり。

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▼戦前期の地図につけた「流路変更(1)」のところ。写真が下手でイヤになりますが、左のマンションは、湾曲した造りになっています。

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▽網の右側は神田川沿いの遊歩道。マンションの敷地との外周との間にスキマが。

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▽「流路変更(1)」の旧流路の内側は、現在は駐車場。

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▽こちらのマンションも、神田川に平行にはなっていません。

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▽公園ではなく、マンションの庭。マンションとは生け垣で区切られています。 

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▽「流路変更(1)」の北の端から南の方を写したもの。左の歩道は現在の神田川に沿ったもの。庭の生け垣と駐車場の塀が、旧流路の名残になっています。

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▼「流路変更(2)」の部分。私有地の境界のブロック塀が湾曲しているのがわかります。旧流路の名残。

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▽ただ、(1)と違って、神田川の側からは全体が見通せません。建物が、神田川に対して垂直になっていないのだけはわかります。

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▽建物の正面に回ってみました。正面の白い建物が、旧流路の内側にあるもの。右の建物と平行になってません。

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▽2つ上の写真のブロック塀の続き。わかりにくいですが、湾曲してます。

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なにぶんマンションの敷地内なので、パシャパシャ取るわけにも行かず、このぐらいが限界か、と。

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地図には印は付けていませんが、別の記事で書いたJRの独身寮と中野三中の敷地も、旧流路の影響を受けています。

▼左の建物はJR独身寮。このわずかなくぼみが旧流路の名残。正面は中野三中。左下に境界標が見えますが…

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▽新宿区の境界標。これより下が区有地もしくは区管理地であることを示しているのですが、遊歩道の縁から約1メートル外側に食い込んでいます。旧流路の内側が、誰にも払い下げられず国有地→区管理のままになっちゃった、ということでしょう。

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▽2つ上の写真の続き。中野三中の校庭に向かって、JR寮の塀が続いています。

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▽少し引いた写真。土地の境目が不自然なのは、そういう理由がありました。

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廃川跡ではなく、流路変更の跡をたどったのは、実は今回が初めてです。江古田川や妙正寺川でも、そういう場所がいくつもあるのを知っていますが、戦前に流路が変更されたところは、道路、住宅になって定着してしまっていて、道がくねくねしている、という以外に見所に乏しいように感じていたためです。

今回、最近の地図で建物の向きが変、というのにようやく気づいて、そういう痕跡を探す楽しさを覚えました。

2018年2月17日 (土)

【毎日新聞の切り抜き】「何人死んだんだ」が示す冷酷 想像力欠く政治家発言が差別をあおる 沖縄、福島 本当に人ごとか

毎日新聞の切り抜きです。
松本文明は東京7区だが小選挙区では当選したことがない(比例で復活)。
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【関連リンク】
6.隆子ちゃん事件(1965/読谷村)-トレーラー投下による少女圧殺-
1965年6月11日 読谷村で米軍のトレーラーが落下し小学生死亡
(沖縄県公文書館)
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「何人死んだんだ」が示す冷酷 想像力欠く政治家発言が差別をあおる 沖縄、福島 本当に人ごとか

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 初耳の読者も多いのではないか。恥ずかしながら、記者も近年まで知らなかった。でも沖縄では、米軍基地がもたらした悲惨な事件として語り継がれてきた。

     1965年6月11日、沖縄・読谷村。米軍輸送機からパラシュートで投下されたトレーラーが、自宅の庭で遊んでいた小学5年、棚原隆子さん(当時11歳)に落下、圧死させた事故だ。昨年、沖縄で相次いだ米軍ヘリの部品落下事故で、この悲劇を思い出した県民も多かったはずだ。

     隆子さんを知る人が永田町にいた。沖縄選出の参院議員、糸数慶子さん(70)である。「小学校や保育園へのヘリの部品落下を知って、私も真っ先に隆子ちゃん事件を思い出しました。一つ間違えば、子供たちの命が危うかったのですから」

     当時高校生だった糸数さんの家は、読谷村で雑貨店を経営していた。「隆子ちゃんの家は隣の地区なんですが、歩いて行ける距離で、お母さんも隆子ちゃんもよく買い物に来てくれて。彼女の顔はパッと思い浮かぶ。今、思い出しても涙が出ます」。事故を報じた毎日新聞の同年6月12日付朝刊の記事は、米軍師団長が棚原さん宅を訪ねたが「家族が半狂乱のため、面会できずに帰った」と結ばれている。

     「59年には米軍機が小学校に墜落し、児童11人が亡くなった事故があったし、他にも住民が犠牲になる事故は起きてきました。米兵の犯罪も後を絶たない。そこで飛び出したのが、あの発言です」

     1月25日の衆院本会議で、米軍ヘリの部品落下事故を巡る共産党・志位和夫委員長の質問中に発した自民党の松本文明副内閣相(当時)の「それで何人が死んだんだ」のヤジのことだ。「副大臣どころか、議員失格です。ならば、沖縄県民は何人死ねばいいんですか。言いたくはありませんが、自分の家族が同じような悲惨な目に遭っても、同じことが言えますか」

     こんな疑念も浮かぶ。あの発言、松本氏の個人的な資質にとどまる問題ではなく、日本社会は多かれ少なかれ、似たような感覚を共有し、沖縄を冷淡に見てきたのではないか?

     ある記事を紹介したい。朝日新聞の2月6日付の夕刊社会面(東京本社発行紙面)である。隊員2人が痛ましい死を遂げた佐賀の陸上自衛隊ヘリの墜落事故を巡り、住民が沖縄の米軍ヘリ事故を念頭に、こんな感想を漏らした。「沖縄であがんことがあっても、遠隔地で気にしていなかった。安心して住まれんね」

     「沖縄では、過去も今も米軍機やヘリが事故を起こしている。住民に犠牲者も出てきた。でも遠隔地・沖縄だから関係ない、と。これこそ多くの日本人が共有してきた意識ではないでしょうか」と喝破するのは、東大教授で哲学者の高橋哲哉さん(61)。日本人が「日米安保は必要だ」と考えるなら、その前提となる米軍基地は本土こそ引き受けるべきだ、と訴えてきた。

     「『関係ない』という意識が沖縄からはどう見えるか。これを見てください」と示されたのが、2月3日付の地元紙・琉球新報。安倍晋三首相が2日の衆院予算委の答弁で、沖縄の基地負担が減らない要因について、初めて「移設先となる本土の理解が得られない」ことを挙げた、と1面トップで報じた。

     「沖縄だって基地を『理解』したわけではない。でも沖縄には基地を押し付け、本土は『理解が得られない』から押し付けない。これこそ差別ではないか。沖縄の怒りの根源がここにあります」

     少数派の沖縄に基地を置いて日米安保の「恩恵」だけは受けながら、圧倒的多数派の本土に基地問題の当事者意識はない。「想像力の欠如でもあります。多数派は、自分が少数派になったり、犠牲になったりするかもしれない、ということを考えない。これは福島の原発事故後も、原発再稼働を求める政治家や世論にも言えることです」

     振り返れば、福島の原発事故でも2013年、自民党の高市早苗政調会長(当時)が講演で「原発事故による死者が出ている状況ではない」と述べ、後に撤回した。津波の被災者を含めて避難中の体調悪化などが原因の震災関連死は、福島県だけで2000人を超える。やはり「遠隔地」である福島の原発事故の実相は人ごと、ということか。電力の恩恵は享受するが、事故のリスクは遠隔地で、という構図は、基地問題と同じである。

     「これらの暴言・失言からうかがえるのは『仮に死者が出ても大したことはない』という意識ではないでしょうか。少し前の話ですが……」と高橋さん。

     久間章生・元防衛相はかつて、有事法制を巡り「90人の国民を救うために10人の犠牲はやむを得ないとの判断はあり得る」(03年6月30日付朝日新聞朝刊)と発言した。

     「問題は、この10人はだれか、です。為政者は、自分を生き残る90人にカウントするでしょう。では国民は、自分や家族をどちらに入れるのか。犠牲になる10人に入ることを為政者に認めた人はいるのでしょうか」

     高橋さんの問いに、即答できる人はいるのか。「何人死んだ」といった言葉の後ろに横たわる空気は、犠牲になる「10人」を他者に求め続けてきた私たちが醸成したのではないか。

    原発事故、基地問題対応に投影

     もう一つ、気になることがあった。米軍普天間飛行場の辺野古への移設の是非が問われた4日の沖縄・名護市長選、移設反対を掲げた前市長陣営を「反日」などと中傷する言説が飛び交った。自民党の山田宏参院議員はツイッターで「親中反米反日勢力」とまで記した。

     米軍の事件・事故を起こしたのは、中国ではない。沖縄県民の生活や生命を脅かす事件・事故を「反日」というならともかく、「悲惨な事件をなくすため、基地を減らしたい」(糸数さん)という訴えが「反日」らしい。山田議員の事務所にツイッター投稿の趣旨について取材を申し込んだが、多忙であることを理由に応じなかった。

     「先月も沖縄で米海兵隊ヘリの部品が落下した保育園の園長に会ってきました。被害を訴える保育園には今も『反日』だの『非国民』だのという迷惑電話やメールが来ているそうです。実は福島も同じで、原発に反対する被災者らに『反日』という言葉が投げつけられている。今の日本は、被害者を『敵』とする風潮が生まれているんです」と首を振るのは、沖縄、福島で取材を重ねてきたジャーナリスト、安田浩一さん(53)だ。

     おさらいすると、沖縄の米軍基地の大半を占める海兵隊は、もとは本土に駐留していた。しかし米軍の事件・事故が相次ぎ、本土の反基地感情が高まった57年以降、米施政下の沖縄に移った。

     当時の本土の空気感を示す国会議事録を見つけた。例えば54年8月2日の参院文部委員会。後に佐藤栄作内閣の文相を務める自由党(自民党の前身)の剱木(けんのき)亨弘(としひろ)氏が、大阪市立大などを接収して駐留する海兵隊について述べていた。

     「海兵隊駐留後は演習で騒がしいし、風紀上の事件も発生し、女子学生は毎日心配して登下校している。市内の小学校の授業にも影響が出ている」ことなどを理由に海兵隊の移駐を求めた。こうした自民党の先達も「反日」なのか。

     「沖縄や福島だけではありません。反原発運動にも『反日』といった物言いがなされる。国や政府に逆らうのは『敵』なのでしょう。理由は判然としない。ただ言えるのは、街頭での差別デモは、法整備が進んで確かに力を失いました。でも、同じように沖縄や福島、隣国や在日外国人、弱者を差別する言葉は日常生活で交わされるラインに近づきつつある。それを後押ししているのが文化人や政治家の暴言です。これは罪深い。彼らの言葉が、差別や被害者の命を『何人死んだんだ』と切り捨てる冷酷さを正当化させることになりかねません」(安田さん)

     二つの地域に向けられる為政者の視線にこそ用心したい。犠牲となる「10人」には、だれだってなりたくない。

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 <担当記者から(吉井理記)>

 

 副内閣相だった松本文明衆院議員の「何人死んだ」発言が気になっていた。一政治家の失言で済ませて良いのか。識者とともに手探りした。先月死去した野中広務氏は1960年代、初めて沖縄を訪れた。そこで日本軍に妹を殺されたタクシー運転手に出会い、衝撃を受ける。回顧録「老兵は死なず」に記されたエピソードだ。安倍晋三首相は「戦後レジーム脱却」を唱える。松本氏ら自民党議員の沖縄に対する物言いをたどると、沖縄が強いられてきた犠牲の記憶からも脱却したいのか、とすら思えてくる。米軍基地だけは沖縄に残したまま、で。野中氏の死去は、松本氏発言の翌日であった。

 

 

2018年2月12日 (月)

【お昼休みに暗渠】谷戸川の支川

神田川の支川の桃園川、の支川の谷戸川、のそのまた支川は、分岐点からJR中央線の線路の南のあたりまでは、その痕跡がはっきりしていてたどって楽しいルートです。

そこから北の部分は、暗渠になった時期が相当古い(おそらく戦前)ようで、面影はほとんどありません。今回は、「東京時層地図」にかなりお世話になりました。

▼戦前期

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▼戦後期

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▼現在

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地図左下の青色になぞった線が、谷戸川の支川です。現在の地図で、青色の線の上端のあたりにある郵便局の記号は東中野郵便局、学校の記号は(現在は)区立中野三中を示します。戦前の地図では、水路を示す水色の線がこのあたりまで延びています(戦後の地図では消えています)。

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ちなみに「(現在は)区立中野三中」と書いたのは、戦前にこの場所にあったのは、旧・区立東中野小学校だからです。当時の東中野小学校(東中野尋常小学校)は1937(昭和7)年に開校。1945(昭和20)年5月25日夜の空襲(山の手大空襲)で消失、1946(昭和21)年3月に閉校になりました。

その後、1956(昭和31)年に、元の場所の少し北の所に新たに東中野小学校が開校しますが、2009(平成21)年の学校再編で、これも閉校になってしまいました。

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このように、ルートは地図で確認するしかなさそうなので、しっかり印刷して出かけます。

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▼東中野駅東口の北側の階段を降り、新宿寄りにある階段をさらに降りると・・・

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▼桐ヶ谷ガード。水路もこのガードをくぐっていたのかどうか…

【訂正】桐ヶ谷ガードが道路として使われるようになったのは1962(昭和37)年のことだそうで、そのときにはとっくに暗渠になっていたはず。ということは、水路がこのガードをくぐることはなかったでしょう。取り急ぎ訂正です。

【中野の歴史10-2】東中野駅、開かずの踏切30年物語
https://www.visit.city-tokyo-nakano.jp/category/walking/history/43037

まちの歴史 | 東中野四丁目町会
http://city.higashinakano4.jp/history.html

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▼なぜ過去のあたりの写真が少ない・・・桐ヶ谷ガードから日本閣の脇を抜けたところから南側を写したもの。このあたり(たぶん左側の歩道のあたり)に水路があった、はず。

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▼同じ地点で北側を写したもの。全体に左から右に傾斜しています。右に進むと神田川に突き当たります。正面、横断歩道の先に数人の人がいるあたりに水路が続いていた、はず。ちなみに、角のお店は話題のラーメン店のようで、入店待ちのお客さんが待機しているのです。

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▼ここから先は、なだらかなカーブと・・・

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▼道路の東側の土地が、道路より一段下がっていることのほかに、水路跡だと言うことを想像させるものはありません。

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▽けやき公園。水路跡と言っていいのは、せいぜいこのあたりまで、かも。

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▼ただ、この少し先に「水神之碑」という石碑があります。

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▽碑が建てられたのは昭和36年(1961年)。谷戸川支川はとっくに暗渠になっていたはず。一方、神田川の流路修正はおそらくこの頃なので、どちらかというとそちらに合わせて建てられたもののような気がします。

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・・・このように、なんとも締まりのない水路行となりましたが、今回下調べの過程でいろいろわかったこと、実際にこの周辺を歩いてみてわかったことがいくつかありますので、それらのついては別の記事で。先週は、5回の昼休みのうち3回を、このあたりの探索に費やしたのでした。上の地図は、その別の記事でも使います。

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東中野今昔物語
http://higanaka.sakura.ne.jp/konjak.html
http://higanaka.sakura.ne.jp/konjak/konjak001.pdf

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【2018/2/18追記】

桐ヶ谷ガードの件、東中野駅は通勤でずいぶん使って、新宿寄りのホームの端から見える踏切らしきものも、何百回も見ているのに、何も疑問に思ってませんでした。あれが旧・桐ヶ谷踏切の名残だったんですね。

▼線路の北側から南方向。下り快速が通過中。

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▽線路の向こう、右側の白い建物が交番。たぶん昔と場所は変わってないのでは。

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▽ホームの端が見えます。北側はフェンスで出入りはできませんが、南側には門があって出入りができるようになっています。工事用車両の出入り口だと思っていたのですが。

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▽踏切の跡だったんですね。

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新宿区下落合、中落合、中井

(2011/9)

これは以前に載せたことがあるかも。

淀橋区は東京市が拡大され35区制になったときに設置。1947年に四谷区、牛込区と合併して新宿区となるまでのあいだの標示、ということになります。

戦後すぐの地図を見ると、このあたりは空襲にあったようで、もしかしたら戦後すぐのものかもしれません。

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ちなみにこのあたりは、1972年の住居表示実施で、下落合から中落合に変わっています。

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新旧の標示が並ぶ門柱。かつての「目白文化村」の一角で、大きなお宅があったと思われますが、現在は、集合住宅になっているようです。

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落合の空襲については、詳しい記事を見つけました。

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【2018/2/3 追記ここから】

上記は2011年の記事。件の表札は、おそらく東京35区の区名を初めて見かけたものだった、かと。そういう意味で、街中で昔の地名の痕跡を探すようになったきっかけになった表札。7年前ですが、この表札(門)いまでもあります。

▼落合の古い表札についてはほかにも記事があります。
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-cd8d.html

記事のうち、「淀橋区西落合一丁目」の青い標識を掲げた家は、2年ぐらい前になくなってしまいました。

▼現在は新宿区中落合。下の方に「翠ヶ丘」とある標識。正式な町名(字)ではありませんが、宅地として開発された当時に住民に呼びなわされた地名と思われます。この地の店舗やマンションの名称にいまでも使われているようです。

この家は、塀も建物も新しいものですが、こだわりをもって掲げられたのだと思います。

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▼こちらも、現在は新宿区中落合。標識は新しいもので、住民の方が自身で設置されたものでしょう。

中落合は1965年に住居表示が実施されたときにできた地名で、大部分は旧・下落合で、旧・西落合、旧・上落合の一部を含んでいます。西落合は1932(昭和7)年の淀橋区成立まで、上落合、下落合は廃藩置県から江戸時代までさかのぼることができることを思えば、中落合という町名に納得できない住民の方も多いのかもしれません。

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▼下落合三丁目の町会員章。現在は、やはり新宿区中落合。建物自体も、おそらくは戦前のものと思われます。右の菱形の標識は、見えづらくなってはいますが、1949年に固定資産税が新設された直後の「家屋調査済証」で、その建物が戦前か戦後すぐに建てられたものであることの目安にしています。

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▽同じ軒下で見つけた、電電公社の電話番号の標識。東京03の市内局番が3桁から現在の4桁に一斉に切り替わったのは1991年の元日のことですが、2桁から3桁への切替は1950年代後半から1961年にかけて、徐々に行われていったようです。

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▽これも同じ軒下。右は「東京市水道局」「淀橋区」とあります。上水道の供給を受けていたという標識ですね。左の「普専」もおそらく上水道の標識で、右の標識より前のものではないかと思います。

現在は新宿中落合ですが、その前は新宿区西落合~淀橋区西落合。その前は豊多摩郡落合町字××。落合町に上水道を供給していたのは、1925(大正14)年に設立された荒玉水道町村組合でしたので、その頃のものではないか、と。同組合は1932(昭和7)年に東京市水道局に統合されました(淀橋区成立と同時期でしょう)。

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▼こちらも、現在は新宿区中落合。

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2011年以降、最近までに見つけた落合の古い地名の痕跡を、まとめてアップしました。

下落合の歴史や現状については、こちらのブログがとても詳しいです。

落合道人 Ochiai-Dojin
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/

荒玉水道については、こちらの論文にお世話になりました。

大谷口配水塔の設計の過程と技術的特徴
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs2004/25/0/25_0_75/_pdf

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【2018/2/4 追記】

▽「東京市水道局」「淀橋区」の標識。上の写真より明瞭。場所は少し離れた、新宿区中井。「中井」は、1965年の住居表示実施で、下落合五丁目の全域に、三、四丁目の一部、上落合二丁目の一部が改称されたもの。

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▽付近にある中井出世不動尊。

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▽関東大震災直前の地図。このあたりまで遡ると、「不動谷」「中井」といった地名が見えてきます。東京時層地図から拝借。

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▽左の楕円の標識は東京電力で「シモオチ」ありますが、現在は同じく新宿区中井。右の電電公社の標識は、市内局番が2桁。古くからある商店の軒下です。

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▽町名とは関係ありませんが、電柱に貼られた宣伝のステッカー。市内局番が3桁。「日経流通新聞」は、2001年4月に「日経MJ」に改題。

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【2018/2/12追記】

▼毎朝、徒歩の通勤ルートを変えていますが、小さな神社を発見。その名も「厳島神社」。

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池の鯉も寒そう。

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▼このあたりも、現在は中落合ですが、かつては下落合。

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▼東電の標識。これも現在は中落合。

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▼こちらは、現在は中井。

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▼上落合は、記事を分離しました。
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-3816.html

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【2018/2/24追記】

▼ペットのマナーを呼びかける標識。「下落合四丁目町会」とありますが、現在は中落合。落合親和町会の範囲です。落合地区の町会は、住居表示の実施の際、新しい町名や町域にあわせて、名称や範囲を変えた経緯がありました。下落合四丁目町会は現在もありますが、その範囲は現在の下落合四丁目で、ここからは少し離れた区域です。

こうした街の美化を訴えるキャンペーンが盛んに行われるようになったのは東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の前後で、これもおそらくその頃のもの。落合地区で住居表示が実施されたのは1965年ですので、標識が設置されたのはそれ以前であることからすると、これも符合します。

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落合第一地区 (新宿区町会連合会 シンジュクイレブン)http://www.shinjuku11.jp/chokai/ochi01/syoukai.html

落合第二地区 (新宿区町会連合会 シンジュクイレブン)
http://www.shinjuku11.jp/chokai/ochi02/syoukai.html

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【2018/3/3追記】通勤途中で見つけた表札の追加。

▼「淀橋区下落合四丁目」とあるもの。戦前のものか、戦後すぐのものか。現在は新宿区中井。大きなお屋敷の勝手口の表札です。

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▼「新宿区中井町」で住居番号がない。上高田の記事で書いたような、住居表示実施の前に町名地番の変更があったか、と思い調べてみましたが、そういうことはなさそう。

住居表示実施前は下落合四丁目。実施直後、住居番号が決まるまでの間に表札を新調されたものと思います。

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新宿区上落合

「下落合、中落合、中井」の記事から「上落合」を分離しました。ほかの町に比べて、昔の町の痕跡をなかなか見つけられないでいる「上落合」ですが、頑張って歩きます(^_^;)

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▼新宿区上落合。この区域は昔も今も上落合ですが、番地の標記です。手書きで見にくくなってはいますが。上落合は下落合に比べて、古い地名の痕跡が少ないのです。

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▼さびさびで、もうなんだかわからない標識。でも、私にはわかる!

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▽この部分には郵便番号が。

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▽この部分には「上落合二丁目」と。

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▽この部分には「三越のマーク」と「新宿三越」の文字が。

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・・・あるはず。というのも、よそで同じ標識をいくつか見たことがあるので。郵便番号の周知を目的としたもので、だとすると1967年頃の設置と思われます。

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▼落合郵便局。前身は新宿北郵便局落合長崎分室で西落合にありました。いまの新宿下落合四郵便局です。

1995年にいまの郵便局ができるまでは、だだっ広い空き地に、プレハブの小屋が何棟も建つだけの場所でした。そして普段は人も車も出入りがなく・・・

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・・・12月だけ、年賀状の仕分けに使われていたのです。このときだけ、郵便トラックやアルバイトの人たちで賑わっていたのを覚えています。いまから思うとあり得ないほどの贅沢な土地の使い方ですが、当時はそういう施設を維持しておく必要があったし、維持できていたんだな、と思います。

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さすがに写真は見当たりませんでした。

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【2018/2/24追記】

今週、上落合の番地表記の表札を相次いで発見。

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さらには、「上落合(二丁目)西町会」の門標も発見。ここは、現在は上落合三丁目です。

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上落合西町会は1959(昭和34)年に設立。1966(昭和41)年に住居表示が実施された際に上落合三丁目町会に改称、とのことです。この門標は、この期間のですね。

上落合三丁目町会 | 町会いんふぉ
http://www.chokai.info/kamiochiai3/001164.php

【お昼休みに暗渠】中野区小滝町の煙突

(承前) 【お昼休みに暗渠】谷戸川の支川
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-284a.html

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暗渠につきものの銭湯ですが、谷戸川の支川(中央線以北)のそばには、2本の煙突が見えます。地図記号としてはあくまで「煙突」なので、直ちに銭湯とはいえません。この2本の煙突については、ちょこっと調べたぐらいではわかりませんでした。

このあたりの神田川のそばは工場が立地していたようで、工場の煙突ではないかとみています。

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▼煙突(1)のあたり。東方向を向いて写しています。左奥は亀齢(きれい)橋。

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▽少し進んで西方向の写真。この道だけ、どういうわけか鍵の手になっています。「ここ、昔銭湯だったんだよ」って言われたら信じちゃいそうなロケーション。

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▽鍵の手の突き当たりの所とそこの向かいのマンションの名前を見るとわかるのですが、以前は「百万石醸造」の工場があったようです。いまでも本社がここにあります。その工場の煙突だったのでしょう。

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▽神田川に接するあたり。うーん、なんとも・・・

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▼もう1箇所は、いまはJRの独身寮。

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▽谷戸川の支流と神田川をつなぐ水路があった、というような記述を見かけるのですが、ここもそうだったのか?

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▽革靴というのがなんとも昼休み。このぐらいの幅で境界標が設置されていると、水路跡!と思ってしまう所なんですが…

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▽・・・たぶん違う。上の境界標から伸びたところは、バイクが置かれている未舗装の部分。それとは別に暗渠のふた。ということは、上の境界標は水路とは無関係、かと。

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▽この建物の前も、おそらくJR(旧・国鉄)の何かがあったところだと思います。銭湯ではなさそう。

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▽水路の跡が神田川に向かって続いています。

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▽突き当たりは神田川の護岸。この付近、神田川(旧・神田上水)の流路変更があったところで、この建物もそうですが、その痕跡を見ることもできます。それについては別の記事で。

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▽あと、この道路はJRの敷地と私有地の境界になっているのですが、境界標は複雑に設置されていて、簡単ではなさそう。写真はたくさん撮りましたが、素人がどうこう言えるようなものではないようです。でも、気になる。

2018年2月11日 (日)

【暗渠】えんが堀 (西武池袋線以南)

(承前)2016年8月16日(火) えんが堀(南の半分)
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.803501199786913.1073741857.100003811201990&type=1&l=b9400252f8
https://www.facebook.com/plugins/post.php?href=
https://www.facebook.com/mochizuki.kazuo/posts/804277346375965
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-c8e5.html

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2016年8月に、たまたま「えんが堀」らしき水路跡らしきものに遭遇。そのときの写真をアップし、地図も作ってアップしました。そのときの地図。

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当時答え合わせに使った「川の地図辞典」でも、起点は西武池袋線の線路のあたりになってました。その起点に接するように、線路際の側溝がつながっていて、暗渠になる直前のルートはこのようなものだったのかな? と推測していました。これが地図の青色の点線の部分です。

ただ、西武池袋線の開通は1915(大正4)年のことで、それでもって流路が変更されるというのもおかしな話です。

記事をアップしたあと気になって、9月に線路の南側に向かってみました。すると、はっきりした水路の痕跡があり、南東方向に続いているのを見つけました。

▼線路の南側から北西方向。電柱が斜めに並んでいるのが、前回たどった終点=水路の起点のあたりです。

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▼少し引いた写真。線路の下をを斜めに横切っていたはずです。

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▼そのまま後ろを振り返ったところ。右奥に細い通路が続いています。

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▼南東方向に続いています。

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▼緩やかなカーブとマンホール。

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▼写真ではわかりにくいのですが、正面の建物の敷地も緩やかにカーブしてます。

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▼土地の境界標が、若干込み入って設置されてます。点線Aより右は豊島区道。では、点線と点線の間は・・・?

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▼とりあえず、元は水路であったであろう通路が続いています。

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▽このときは珍しく自転車。コインランドリーで乾燥機を使っている間の30分で確認に行ったのでした。

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▽左は駐車場。舗装の色が微妙に違う部分が水路跡。

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▽道路の縁石の途切れ具合がなんとも微妙。というのもこの水路跡は、豊島区と練馬区の区境でもあるのです。

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▽その微妙な部分の拡大。点線Aより上は練馬区。点線Bより下は豊島区。点線の間は水路跡。水路跡だから、いまでも国有地?

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★猫と暗渠

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▽ゴールが近いのを思わせる雰囲気。

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▼ゴールです。

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▼千川通りです。そうです。水路跡は旧千川上水につながっていたのでした。

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ゴール・・・と思ったのは実は微妙に間違いで・・・今回歩いたのは緑色の矢印の部分です。地図は「東京時層地図」から拝借の戦前のものです。

水路跡が、千川通りに突き当たったところで旧千川上水に合流していたと思ったのですが、水路はそこで左折。千川通りが直角に曲がるあたりで合流していたのでした。ただ、旧千川上水も、えんが堀の延長部分も、今となってはまったくその痕跡を見つけることはできません。

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引用した地図が戦前(1930年ごろ)のものなのも、延長部分が記載されているのはこの頃のものだけで、戦後(1960年頃)のものでは、えんが堀は西武池袋線以南だけでなく、線路から北の方にしばらく行ったところまで、すでに暗渠になっていたようでした。

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・・・ということで、えんが堀の南半分について、再確認までしたのに記事が曖昧なままになっていたのが、ずっと気になっていたのですが、ホッとしました。

あとは、まだそれとして見に行ってはいない北半分を訪れたいと思います。

ただ、支流がいくつかあるのと、上の地図を見てもわかるとおり、時代によってどの川に接していたか、変遷があるようです。行き当たりばったりじゃなくて、下調べが必要なようです。












2018年2月 6日 (火)

【お昼休みに暗渠】谷戸川(の一部)

それとして水路や暗渠を歩くのも、最近は難しいのですが(時間的に、体力的に)、昼休みに歩ける範囲にいくつか暗渠があるので、行ってきました。まずは谷戸川(の一部)です。

谷戸川は2011年の夏に、通しで歩いたところです。上流に向かって歩いているので、写真の順番と流れの方向に違和感があるのですが、そこはご容赦ください。

▼東京工科自動車大学校から南を見たところ。奥のガードはJR中央線。中野駅が右の方にあります。

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▼東京工科自動車大学校の角。水路跡の特徴のひとつに公衆浴場の存在がありますが、撮影のために立っていたポイントの真後ろに「文園湯」という2006年まで銭湯があったそうです。

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▽1960年頃の地図。文園湯を示す記号がしっかり。そして、この頃は、源流からこのあたりまでが暗渠化されていた模様。東京時層地図から拝借。

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▼東京工科自動車大学校のあたりから西の方を見たところ。水路は道の右端、概ね矢印のあたりにあったのでは、と思われます。

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▼というのも、手前の白い集合住宅と奥の薄茶色の家とで、道幅に差があります。手前の家がセットバックしたわけではなくて、水路を埋めた分道が広がった、というわけです。

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▼上の写真で水路が向きを変えるところ。ここからしばらく、水路跡らしい雰囲気がしばらく続きます。

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▽新しい建物は、玄関が道(もとは水路)の方を向いていますが、たいていは建物の裏に当たります。

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▼左右の道路はもみじ山通り。道をはさんで手前は中野六丁目(旧・文園町)、奥は中野五丁目(旧・天神町)。水路は中野天神のあたりでちょっと怪しくなって、その先でまたはっきりとします。

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昼休みに歩ける範囲では、このあたりが限界。歩いたコースはこんな感じです。

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上の地図に重なる昭和22年頃の航空写真。

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ところで、谷戸川の源流は、中野駅北口のライフとかハラーズがあるあたりのようですが、飲食店が密集するこのあたりのどこが源流なの? と言いたくなるほど想像がつかないのですが、きちんと調べてくれている方が、やはりいらっしゃるものです。

A Midsummer Night's Hole | 中野駅前から神田川方面へ流れる暗渠上散歩。http://misomax.blogspot.jp/2010/10/walk-on-culvert-nakano-station-to-kanda.html

文園湯
http://www5a.biglobe.ne.jp/~furo/fumizono/

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【2018/2/11追記】

谷戸川の源流のことを書いたら、昨年の猫と暗渠のトークイベントでお話を伺ったnama (@nama_kaeru) さんに、さらに詳しい情報を教えてもらいました。リンクを貼っておきます。

https://t.co/ATPi4n7658
https://twitter.com/nama_kaeru/status/961245425335394304

https://twitter.com/nama_kaeru/status/961245425335394304https://twitter.com/nama_kaeru/status/961245425335394304

2018年2月 4日 (日)

東中野駅北側の古い町名たち(文園町)

文園町は1966年の住居表示で、現在の中野六丁目の大部分に。

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町会や公共施設、集合住宅の名称には見られるものの、

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当時の痕跡はなかなか見つからず、ほぼあきらめかけたところで発見。

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このあたり、何年か前に谷戸川の跡をたどったときに通りかかったところですが、水路跡の一本北にある通り沿いにありました。この道は通ってなかったな…

谷戸川については、別のちょっとだけ書きます。

2018年2月 3日 (土)

【きょうの調べ物】三八豪雪(昭和38年1月豪雪)

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[昭和38年2月] 中日ニュース No.472_1 「北陸に白い洪水」
https://www.youtube.com/watch?v=e_5i2jjOiqA

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[昭和38年2月] 中日ニュース No.473_3 「雪害地帯」
https://www.youtube.com/watch?v=XzazOhiJjLI

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週末の家事の手待ちにYouTubeの昔のニュース映画をチェック。

この冬は大雪で、東京もついこの間の大雪でさまざまな混乱が。そうはいっても豪雪地帯は比べものにならないほどの厳しい状況と思います。

大雪でいまでもその名が上がる「三八(さんぱち)豪雪」(正式には「昭和38年1月豪雪」)。映画は当時のリアルタイムですから、当然まだそのような命名はされていません。

驚くのはその被害の大きさ。200人を超える死者、400人を超える負傷者。降雪量の差もさることながら、建物の構造が堅牢になったり、除雪の技術が向上したりするなど、すくなくとも建物が雪の重みでつぶれて人的被害が発生する、というようなことはほとんどなくなっていると思います。

一方で、住民の高齢化、過疎化が進んで、屋根の雪下ろしが思うに任せなかったり、転落による被害。あるいは、空き家の水道管の破裂による上水道の支障、などは逆に当時は少なかった減少だったのではないでしょうか。

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昭和38年豪雪の記録写真集
http://www.geots.co.jp/?page_id=1206

三八豪雪と急行「越路」
http://milkywave.sakura.ne.jp/contents/event/exp_koshiji/index.html

雪が降るとは必ずささやかれるサンパチ豪雪と石川県の豪雪の話!今日は雪が多いから二階が玄関です!二階からこんにちは!
https://beauty-hokuriku.com/p/38-gousetsu

38.1 豪雪によせて 日本の雪の研究の現況と問題点 福井 篤
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/73/1/73_1_1/_article/-char/ja/

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「三八豪雪」はさすがに生まれる前の出来事ですが、記憶にあるものでは「五九豪雪(昭和59年豪雪)」。鳥取以東の日本海側の積雪量がすごいのですが、島根県松江市内でもかなり積もりました。

当時住んでいた家は店舗を兼ねた、やたらだだっ広い建物で、2階の半分は使用していなかったのですが、そのために屋根にかなり積もってしまって、襖の開け閉めがしにくくなるほどでした。あわてて空き部屋でストーブを焚き、それでも間に合わないので屋根に上がって雪下ろしをした覚えがあります。

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以前は、大雪の被害が伝えられるたびに引用されていた「北越雪譜」の「初雪」の節。最近はてんで見かけなくなりましたが、冬が来るたび思い出します。

暖国の人の雪を賞翫するは、前にいえるがごとし。江戸には雪の降らざる年もあれば、初雪はことさらに美賞し、雪見の船に哥妓を携え雪の茶の湯に賓客を招き青楼は雪を居続けの媒となし、酒亭は雪を来客の嘉瑞となす。雪の為に、種々の遊楽をなす事、枚挙あげてかぞえがたし。雪を賞するの甚だしきは、繁花のしからしむる所也。雪国の人これを見、これを聞きて羨まざるはなし。我国の初雪を以てこれに比ぶれば、楽しむと苦しむと雲泥のちがい也。


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