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2019年6月

2019年6月 8日 (土)

釜屋堀工場(日本石油精製→小倉石油)

以前、石油元売の変遷図を作ったときに、いくつかわからない箇所があって、これもそのひとつ。

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小倉石油店は、のち小倉石油(株)になり、1941年に日本石油(株)に合併されます。日石の社史で、「1895(明治28)年に、日本石油精製の釜屋堀工場を買収。」とあり、それに基づいて上図のようにしました。

四角の中には会社名を入れたいのですが、当時「日本石油精製」(1951年に設立された会社とは別)についてはさっぱりわからず、釜屋堀工場についても、場所すらわからなかったような気がします。やむなく上図のように、四角の中には工場名を、会社名は括弧書きにせざるを得ませんでした。

先日参加したフィールドワーク「関東震災時 朝鮮人虐殺地を歩く」で、本筋とは関係ないですが江東区大島の当時の様子を紹介するものとして、「小倉石油株式会社東京製油所」の写真が紹介され、変遷図のことを思い出しました。

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このあたりの昔の地図を見ると、確かにあります。猿江恩賜公園の川を挟んで東側。

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そこで、不意に思いあたって、以前から手許にある「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」をみると、ありました、「釜屋堀」が。なんで当時この本にあたらなかったのか…同書によれば、横十間川の別名として「竪川から小名木川の間を釜屋堀ともいう」とあります。フィールドワークで紹介された写真は、間違いなく「釜屋堀工場」です。

さらに、国立国会図書館のデジタルライブラリで検索すると・・・あっさり見つかりました。

▼村上太三郎伝(1939)

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▼日本石油史(1914)

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▼明治工業史・鉱業編(1931)

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よれば、日本石油精製(株)は、1896(明治29)年10月に設立、釜屋堀の田代虎二郎の製油所跡地(以前は火止油、灯台油を製造)に石油精製所をもうけたもの。日本石油精製の設立には小倉常吉らが関わっているが、釜屋堀工場は後に小倉の個人経営に移行し、会社は新潟に生産の本拠居を移したものの、経営不振で解散、とあります。

変遷図を作った頃にはデジタル化されてなかったのかなー?

ともかくも、変遷図は下記のように修正しました。

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変遷図の全体は、こちらにアップしています。

http://egotadp.biz/sekiyuMotouri/index.htm

2019年6月 5日 (水)

【ぷち暗渠】谷端川の支流

  病院で出された薬ができるのを待つ間に、谷端川の支流跡をたどりました。

参考にした地図はこちら。「東京時層地図」の「昭和戦前期」のもの。

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A地点。左右の道路は目白通り。道路の南側から北方を。

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A地点から北方。通りが筋交いになっていますが、道幅=川幅ではないでしょう。

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流れを想像するのは、ちょっと難しいです。

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さらに進むと路地に。たぶん暗渠になる直前の川幅はこんなものでしょう。

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突き当たりは区の施設で、通り抜けることはできません。迂回します。

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迂回しました。上の写真の反対側で南方を。

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同じ位置で北方を。まもなくゴールです。

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B地点で東方を。谷端川の下流方向。

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同じ地点で西方、上流方向を。奥に見えるのは山手通りの陸橋。

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B地点で南方を。右手の施設は、以前は豊島区立真和中学校でしたが・・・

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現在は別の用途に。

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旧・道和中と旧・真和中がに統合され、2005年4月に西池袋中が旧・真和中(上の写真)で開校。旧・道和中の改修工事が完了し、翌2006年4月に西池袋中が移転。つまり上の写真の西池袋中学は1年限りだった、ということ。

谷端川の本流も、B地点付近では面影はありませんが、道路の形は川の流れのままで、もう少し北方(下流方向)に進むと公園として整備されています。

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ところで、地図ではA地点から先がどうなっているのかはわかりません。この頃の地図は、区境が水路と同じ薄い青色でなぞられていて、区別がつきません(たぶん豊島区と新宿区の境は水路ではないと思います)。

ネットで見つかる他の記事では、A~B間の途中で西に折れて進んだ先が水源地、とする記事もあります。確かに水路跡とおぼしき細道が西の方に進んでいるところもあります。

A地点から南方を見ると、つながっているようには見えませんが、このビルの先は谷になっていて、もしかして川跡?と思わせるような風景も見えます。そしてその先には妙正寺川が。

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上の地図と同じ範囲の「関東大震災直前」のもの。上の地図とは10年ほどの違いしかありませんが、まるで雰囲気が違います。

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田畑が目立つこの地域が、関東大震災のあと急激に宅地化し、それまで農地を潤していた水路をひとまずとりまとめられたが、わりと早い時期に暗渠になった、と見るべきなんでしょうか。

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