昔の地名

2018年2月12日 (月)

新宿区下落合、中落合、中井

(2011/9)

これは以前に載せたことがあるかも。

淀橋区は東京市が拡大され35区制になったときに設置。1947年に四谷区、牛込区と合併して新宿区となるまでのあいだの標示、ということになります。

戦後すぐの地図を見ると、このあたりは空襲にあったようで、もしかしたら戦後すぐのものかもしれません。

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ちなみにこのあたりは、1972年の住居表示実施で、下落合から中落合に変わっています。

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新旧の標示が並ぶ門柱。かつての「目白文化村」の一角で、大きなお宅があったと思われますが、現在は、集合住宅になっているようです。

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落合の空襲については、詳しい記事を見つけました。

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【2018/2/3 追記ここから】

上記は2011年の記事。件の表札は、おそらく東京35区の区名を初めて見かけたものだった、かと。そういう意味で、街中で昔の地名の痕跡を探すようになったきっかけになった表札。7年前ですが、この表札(門)いまでもあります。

▼落合の古い表札についてはほかにも記事があります。
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-cd8d.html

記事のうち、「淀橋区西落合一丁目」の青い標識を掲げた家は、2年ぐらい前になくなってしまいました。

▼現在は新宿区中落合。下の方に「翠ヶ丘」とある標識。正式な町名(字)ではありませんが、宅地として開発された当時に住民に呼びなわされた地名と思われます。この地の店舗やマンションの名称にいまでも使われているようです。

この家は、塀も建物も新しいものですが、こだわりをもって掲げられたのだと思います。

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▼こちらも、現在は新宿区中落合。標識は新しいもので、住民の方が自身で設置されたものでしょう。

中落合は1965年に住居表示が実施されたときにできた地名で、大部分は旧・下落合で、旧・西落合、旧・上落合の一部を含んでいます。西落合は1932(昭和7)年の淀橋区成立まで、上落合、下落合は廃藩置県から江戸時代までさかのぼることができることを思えば、中落合という町名に納得できない住民の方も多いのかもしれません。

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▼下落合三丁目の町会員章。現在は、やはり新宿区中落合。建物自体も、おそらくは戦前のものと思われます。右の菱形の標識は、見えづらくなってはいますが、1949年に固定資産税が新設された直後の「家屋調査済証」で、その建物が戦前か戦後すぐに建てられたものであることの目安にしています。

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▽同じ軒下で見つけた、電電公社の電話番号の標識。東京03の市内局番が3桁から現在の4桁に一斉に切り替わったのは1991年の元日のことですが、2桁から3桁への切替は1950年代後半から1961年にかけて、徐々に行われていったようです。

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▽これも同じ軒下。右は「東京市水道局」「淀橋区」とあります。上水道の供給を受けていたという標識ですね。左の「普専」もおそらく上水道の標識で、右の標識より前のものではないかと思います。

現在は新宿中落合ですが、その前は新宿区西落合~淀橋区西落合。その前は豊多摩郡落合町字××。落合町に上水道を供給していたのは、1925(大正14)年に設立された荒玉水道町村組合でしたので、その頃のものではないか、と。同組合は1932(昭和7)年に東京市水道局に統合されました(淀橋区成立と同時期でしょう)。

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▼こちらも、現在は新宿区中落合。

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2011年以降、最近までに見つけた落合の古い地名の痕跡を、まとめてアップしました。

下落合の歴史や現状については、こちらのブログがとても詳しいです。

落合道人 Ochiai-Dojin
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/

荒玉水道については、こちらの論文にお世話になりました。

大谷口配水塔の設計の過程と技術的特徴
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs2004/25/0/25_0_75/_pdf

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【2018/2/4 追記】

▽「東京市水道局」「淀橋区」の標識。上の写真より明瞭。場所は少し離れた、新宿区中井。「中井」は、1965年の住居表示実施で、下落合五丁目の全域に、三、四丁目の一部、上落合二丁目の一部が改称されたもの。

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▽付近にある中井出世不動尊。

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▽関東大震災直前の地図。このあたりまで遡ると、「不動谷」「中井」といった地名が見えてきます。東京時層地図から拝借。

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▽左の楕円の標識は東京電力で「シモオチ」ありますが、現在は同じく新宿区中井。右の電電公社の標識は、市内局番が2桁。古くからある商店の軒下です。

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▽町名とは関係ありませんが、電柱に貼られた宣伝のステッカー。市内局番が3桁。「日経流通新聞」は、2001年4月に「日経MJ」に改題。

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【2018/2/12追記】

▼毎朝、徒歩の通勤ルートを変えていますが、小さな神社を発見。その名も「厳島神社」。

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池の鯉も寒そう。

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▼このあたりも、現在は中落合ですが、かつては下落合。

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▼東電の標識。これも現在は中落合。

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▼こちらは、現在は中井。

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▼上落合は、記事を分離しました。
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-3816.html

 

新宿区上落合

「下落合、中落合、中井」の記事から「上落合」を分離しました。ほかの町に比べて、昔の町の痕跡をなかなか見つけられないでいる「上落合」ですが、頑張って歩きます(^_^;)

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▼新宿区上落合。この区域は昔も今も上落合ですが、番地の標記です。手書きで見にくくなってはいますが。上落合は下落合に比べて、古い地名の痕跡が少ないのです。

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▼さびさびで、もうなんだかわからない標識。でも、私にはわかる!

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▽この部分には郵便番号が。

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▽この部分には「上落合二丁目」と。

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▽この部分には「三越のマーク」と「新宿三越」の文字が。

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・・・あるはず。というのも、よそで同じ標識をいくつか見たことがあるので。郵便番号の周知を目的としたもので、だとすると1967年頃の設置と思われます。

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▼落合郵便局。前身は新宿北郵便局落合長崎分室で西落合にありました。いまの新宿下落合四郵便局です。

1995年にいまの郵便局ができるまでは、だだっ広い空き地に、プレハブの小屋が何棟も建つだけの場所でした。そして普段は人も車も出入りがなく・・・

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・・・12月だけ、年賀状の仕分けに使われていたのです。このときだけ、郵便トラックやアルバイトの人たちで賑わっていたのを覚えています。いまから思うとあり得ないほどの贅沢な土地の使い方ですが、当時はそういう施設を維持しておく必要があったし、維持できていたんだな、と思います。

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さすがに写真は見当たりませんでした。

2018年2月 4日 (日)

東中野駅北側の古い町名たち(文園町)

文園町は1966年の住居表示で、現在の中野六丁目の大部分に。

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町会や公共施設、集合住宅の名称には見られるものの、

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当時の痕跡はなかなか見つからず、ほぼあきらめかけたところで発見。

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このあたり、何年か前に谷戸川の跡をたどったときに通りかかったところですが、水路跡の一本北にある通り沿いにありました。この道は通ってなかったな…

谷戸川については、別のちょっとだけ書きます。

2018年1月21日 (日)

東中野駅北側の古い町名たち(昭和通)

承前
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-f916.html
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-791d.html

▼昭和通…現在は上高田一、二丁目、新井一丁目、東中野三丁目、中野五、六丁目のそれぞれの一部。

現在は、道路を境目として町域を設定するのが一般的ですが、中野区(旧・豊多摩郡中野町)では、幹線道路を挟んだ両側をひとつの町域とするのが一般的でした。通りの両側が商店街を形成していたとすると、その方が現実的であったような気がします。

・早稲田通りを挟んで、昭和通一~三丁目。

・大久保通りを挟んで、宮園通一~五丁目。

・青梅街道を挟んで、本町通一~六丁目。

・本郷通りを挟んで、本郷通一~三丁目。(文京区本郷をトオル本郷通りとは異なる)

・方南通りを挟んで、栄町通一~三丁目。

・新山通りを挟んで、新山通一~三丁目。

1963年以降、住居表示が実施されると、現代風の道路で区切る方式になったため、それまでひとつの街だったのが、南北、東西にぶつ切りにされてしまいました。昭和通もそのひとつで、1町3町域が、4町6町域に分割されてしまいました。

ただ、町会はそのまま残っている場合が多いようです。旧・昭和通一丁目も町会にその名をとどめています。

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今回の散策で、一番興奮した発見。住民の異動によってふたをされ(そのために残存した)、そのふたが取られたために発見できたもの。

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寛政12年(1800年)に建てられた供養塔。上高田一丁目にあります。

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願主は「中野村打越」の人。打越は、中野駅北口の真ん前のあたりの区域を指します。

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この付近で見かけたごみ処理ルールの標識。

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広告にある大同信用金庫は、1992年に共栄信用金庫と合併して、現在は西京信用金庫。

http://www.shinkin.co.jp/saikyo/


### 2018/1/28追加

昭和通の地名が消滅して50年余り。その痕跡を見つけるのはなかなかに困難です。

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牛乳販売店のバイク。

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【2018/2/3 追加】

ほんっとに何も見つからないときに助かる、NTTの標識。

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【2018/2/18追記】

東中野ギンザ通り商店街は、途中で旧・桜山町、旧・昭和通一丁目に区切られますが、商店街としてはひとつながりのようです。

▼そこで発見した軒下の標識。「昭和通一丁目文化会員」の標識が見えます(町会の名称はいまもこの名称)。確かに長くここでご商売なさっているように見受けられます。右の写真の菱形の標識は、シャウプ勧告で固定資産税が制定された直後の家屋調査済証で、「昭和26年度」とあります。左の写真の菱形は犬を飼育していることを示すシール。「昭和35年」とあります。

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右の写真の円形の標識は、「東京市水道局/中野区」とあります。ということは、1943(昭和18)年以前の建物、ということになります。

別の記事で書きましたが、このあたりは、1945(昭和20)年5月25日の空襲(「山の手大空襲」)や、その少し前の4月の空襲で被災した地域です。「復刻版 コンサイス東京都35区区分地図帳」でも、このあたりは消失区域であることを示す赤色で塗られています。

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桜山町の「桜」の字の左上がわずかに白くなっているように見えますが、もしかしたら幸運にも焼け残った建物なのかもしれません。

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ちなみに、犬の首輪などに付けることが義務づけられている鑑札、注射済票は狂犬病予防法で義務づけられているものです。これとセットで交付される「犬」のシール(門標)は都道府県の条例で義務づけられているものです(東京都の場合「東京都動物の愛護及び管理に関する条例」第9条4項)。

狂犬病予防法施行規則http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=325M50000100052#83

犬の鑑札、注射済票について (厚生労働省)
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou10/10.html

東京都動物の愛護及び管理に関する条例
http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/g1013637001.html

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東中野駅北側の古い町名たち(桜山町)

承前
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-f916.html

▼桜山町…現在は東中野三丁目、四丁目。

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中野区の成立は1932年。桜山町はそれ以前から存在するものなので、この表札はその頃までさかのぼるもの、かな?

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桜山町は、中央線の線路沿いにある桜並木を残すか否かで、ながらく中野区と対立しています。

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東中野駅北側の古い町名たち(小滝町、住吉町)

現在は、東中野駅を取り囲むように東中野一丁目から五丁目となっていますが、それ以前はそれぞれに趣のある名前の街でした。一斉に切り替わったのは1966年のことです。いまから思えばもったいないことです。

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▼小滝町…現在の東中野五丁目と四丁目の一部です。

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▼住吉町…東中野四丁目の大部分です。

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テープで隠されてはいますが、確かにここが住吉町だったあかし。

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狭くてくねくねした路地にたくさんの飲食街があった「住吉小路」は、地上げ屋と住民が係争中。取り壊しがかなり進んでしまって、かつての風情は失われつつあります。

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【2018/2/18追記】

▼小滝町の表札を発見。建物は新しいですが、塀は古くからのものを大切にしておられるお宅。もしやと思って見てみたら。2世代同居のようで、表札の標記も新旧併存で、なんだかいい感じです。

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▼ついに住吉町が隠されていない表札を発見。通りから奥まったところのお宅ですが、たまたま街猫に導かれて。

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▼見上げると、東電の古びた標識に「住吉」。電柱の標識自体は「東中」。

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2018年1月 8日 (月)

【きょうの調べ物】三和信用金庫(東京)

都内の各地で時折見かける古い街区表示板。1960年代後半のものと推測しています。

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http://egotadp.biz/region/ichiichi/114_nakanoku.htm

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三和信用金庫(東京)は、1991年に東海銀行(当時)に合併されました。三和信金は債務超過の状態にあり、救済のために吸収合併されたものでした。バブルが崩壊し始めた時期で、中小金融機関は大手金融機関が救済する、という手法をとっていることでした。

組織再編対価の柔軟化と合併本質論 : 企業結合法理の再構築に関する試論
(井上能孝/九州法学会会報 2007)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kla/2007/0/2007_47/_article/-char/ja/

本店は新中野駅の近くにあったとのこと(現在は中野警察署の仮庁舎)。しばらくは東海銀行新中野支店として営業していましたが、東海銀行と三和銀行が合併してUFJ銀行ができた2002年までには消滅していたようです。UFJ銀行は、2006年に東京三菱銀行に救済合併され、三菱東京UFJ銀行となりました。

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(官報 平成3年6月28日)

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三和信用金庫の店舗は、本店(新中野)、南中野、幡ヶ谷不動、中村橋、南長崎、徳丸、戸田、台東、日暮里、三ノ輪、品川、本蓮沼、中野弥生町にあったとのこと。

南長崎にも店舗があったとのことで検索してみたところ、このような記事が…

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全昌院
http://www.zenshoin.com/

週刊 「へぇーそ!五郎久保」 第 39号
http://www.zenshoin.com/category8/category16/blog39.pdf

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以上。きょうの調べ物でした。

2016年8月18日 (木)

軒下が気になる(豊島区長崎、千早)

古いものが好きなので、町をぶらぶらしていても、やはり古い建物に目が行きます。
そして、軒下が気になります。

▼長崎。東京商工会議所の会員であることを示す標識(金属製)。現在は年度ごとのステッカーを貼るようになっています。いつ頃のものかは不明。「工」の字の縦棒を曲げてあるあたりに時代を感じます。

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▼千早。古い建物ではありません。同じ集合住宅の表札で、上は「千早町3-XX」(3丁目XX番地)、下は「千早3丁目X-Y」(3丁目X番Y号)。豊島区内でも池袋駅の西に広がる一帯は、住居表示の実施が遅くて1989年。いまでも、地番表示の表札が多く見られます。

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▼長崎。「関配」は関東配電株式会社の略で東京電力の前身。1942年に配電統制令(国家総合員法による配電事業の国家統制)で設立された会社。1951年まで存在。この建物が戦前からあるものかどうかは不明ですが、「関配」の標識は、この近辺でよく見かけます。左の丸いのは東京都水道局、右は家屋調査済証。

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▼長崎。標識がずらり。上から、青色の楕円はNHKのテレビジョン契約の放送受信章。テレビ放送が開始された1953年から1962年までに交付されたもの。

銀色の菱形のものは、1950年にシャウプ勧告に基づき新設された固定資産税に基づく家屋調査済証の最初のもの。1949年から1950年にかけて交付されたもので、個人的にはこれがあると、戦前建物か、と推測する基準になっています。

物干し竿の後ろの菱形のものは不明、その下の銀色丸形のものも判読不能(わりとよく見かけるのですが)。その下1枚剥落した跡があるのですが、おそらく関配または東電のものが貼ってあったのではないか、と。

赤色の星印は東京ガス。その下の丸形は東京都水道局。

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これだけずらりと貼ってあるのは、以前環七沿い(練馬区内)で遭遇した建物以来かも。

長崎は、一丁目は空襲に遭っていますが、それより西はあっておらず、長崎二丁目から六丁目、練馬区旭丘にかけては、戦前から、もしくは、戦後すぐの建物がかなり残っているように受けられます。



2016年7月 9日 (土)

池袋駅の北東~旧・西巣鴨

豊島区西巣鴨(1~4丁目)は現在も存在する地名ですが、1969年までの旧・西巣鴨(1~4丁目)は、現在の東池袋2~5丁目、北大塚2・3丁目、南大塚1丁目、巣鴨4・5丁目、上池袋1~4丁目、西巣鴨1~4丁目を含む広大なものだったようです。

昼公演の観劇の後、夜の予定まで時間が空いたので、池袋東口をぶらぶら。いつの間にか山手線の切り通しのあたりにたどり着きました。地名は池袋ですが、駅から少し離れると住宅密集地になります。

現在は上池袋一丁目に当たるところで、旧・西巣鴨二丁目の表札を発見。

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ちなみにこのお宅、かつては謄写版の修正液やのり、製図用品などを製造していたところとのこと。

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上池袋は、1969年までの(旧)池袋1・7・8丁目、堀之内町、(旧)西巣鴨2・3丁目を含んでいて、このうち堀之内町は町名としては消滅。山手線にかかる堀之内橋は、その名残です。

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▼1960年代の地図。消滅した「堀之内町」が見える。線路とは無関係に(旧)池袋一丁目が広がり、それに接するように(旧)西巣鴨二丁目がある。地図の下の方に見える三角形は、巣鴨刑務所→スガモプリズンの敷地の一部。地図の当時は返還されて東京拘置所と称していた頃。

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▼最近の地図。

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2014年1月27日 (月)

【錦糸町界隈】墨田区竪川(現・墨田区立川)

竪川にかかる竪川橋の親柱。現在、橋のたもとで工事中のため、残念な姿。

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近くにある案内図。

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たてかわばし児童遊園も工事中。

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案内図で、川の名前も橋の名前も「竪川」なのに、町の名前はなぜか「立川」。

1966年に住居表示が実施され、それまでの「墨田区竪川」が「墨田区立川」。このとき、当用漢字表に「竪」の字が含まれていなかったため「立」を使ったんだと。残念なこと。

「竪」を「たて」と読ませるのは容易ではないけど、東京で「立川」を「たちかわ」ではなく、「たてかわ」と読ませるのは、もっと困難なはず。どっちにしてもふりがなを振らなければならないなら、もとのままのほうがよかったですよね。

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表札に残る、旧町名。

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旧町名の頃の町会の標識。

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こちらも旧町名の頃(1963年)に建てられた「国旗掲揚塔」。

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竪川橋から見た竪川。

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竪川は東半分は埋められてしまいましたが、このあたりから隅田川にかけての部分は川のまま残されています。川の上には首都高(7号小松川線)。

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