昔の地名

2016年8月18日 (木)

軒下が気になる(豊島区長崎、千早)

古いものが好きなので、町をぶらぶらしていても、やはり古い建物に目が行きます。
そして、軒下が気になります。

▼長崎。東京商工会議所の会員であることを示す標識(金属製)。現在は年度ごとのステッカーを貼るようになっています。いつ頃のものかは不明。「工」の字の縦棒を曲げてあるあたりに時代を感じます。

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▼千早。古い建物ではありません。同じ集合住宅の表札で、上は「千早町3-XX」(3丁目XX番地)、下は「千早3丁目X-Y」(3丁目X番Y号)。豊島区内でも池袋駅の西に広がる一帯は、住居表示の実施が遅くて1989年。いまでも、地番表示の表札が多く見られます。

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▼長崎。「関配」は関東配電株式会社の略で東京電力の前身。1942年に配電統制令(国家総合員法による配電事業の国家統制)で設立された会社。1951年まで存在。この建物が戦前からあるものかどうかは不明ですが、「関配」の標識は、この近辺でよく見かけます。左の丸いのは東京都水道局、右は家屋調査済証。

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▼長崎。標識がずらり。上から、青色の楕円はNHKのテレビジョン契約の放送受信章。テレビ放送が開始された1953年から1962年までに交付されたもの。

銀色の菱形のものは、1950年にシャウプ勧告に基づき新設された固定資産税に基づく家屋調査済証の最初のもの。1949年から1950年にかけて交付されたもので、個人的にはこれがあると、戦前建物か、と推測する基準になっています。

物干し竿の後ろの菱形のものは不明、その下の銀色丸形のものも判読不能(わりとよく見かけるのですが)。その下1枚剥落した跡があるのですが、おそらく関配または東電のものが貼ってあったのではないか、と。

赤色の星印は東京ガス。その下の丸形は東京都水道局。

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これだけずらりと貼ってあるのは、以前環七沿い(練馬区内)で遭遇した建物以来かも。

長崎は、一丁目は空襲に遭っていますが、それより西はあっておらず、長崎二丁目から六丁目、練馬区旭丘にかけては、戦前から、もしくは、戦後すぐの建物がかなり残っているように受けられます。



2016年7月 9日 (土)

池袋駅の北東~旧・西巣鴨

豊島区西巣鴨(1~4丁目)は現在も存在する地名ですが、1969年までの旧・西巣鴨(1~4丁目)は、現在の東池袋2~5丁目、北大塚2・3丁目、南大塚1丁目、巣鴨4・5丁目、上池袋1~4丁目、西巣鴨1~4丁目を含む広大なものだったようです。

昼公演の観劇の後、夜の予定まで時間が空いたので、池袋東口をぶらぶら。いつの間にか山手線の切り通しのあたりにたどり着きました。地名は池袋ですが、駅から少し離れると住宅密集地になります。

現在は上池袋一丁目に当たるところで、旧・西巣鴨二丁目の表札を発見。

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ちなみにこのお宅、かつては謄写版の修正液やのり、製図用品などを製造していたところとのこと。

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上池袋は、1969年までの(旧)池袋1・7・8丁目、堀之内町、(旧)西巣鴨2・3丁目を含んでいて、このうち堀之内町は町名としては消滅。山手線にかかる堀之内橋は、その名残です。

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▼1960年代の地図。消滅した「堀之内町」が見える。線路とは無関係に(旧)池袋一丁目が広がり、それに接するように(旧)西巣鴨二丁目がある。地図の下の方に見える三角形は、巣鴨刑務所→スガモプリズンの敷地の一部。地図の当時は返還されて東京拘置所と称していた頃。

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▼最近の地図。

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2014年1月27日 (月)

【錦糸町界隈】墨田区竪川(現・墨田区立川)

竪川にかかる竪川橋の親柱。現在、橋のたもとで工事中のため、残念な姿。

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近くにある案内図。

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たてかわばし児童遊園も工事中。

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案内図で、川の名前も橋の名前も「竪川」なのに、町の名前はなぜか「立川」。

1966年に住居表示が実施され、それまでの「墨田区竪川」が「墨田区立川」。このとき、当用漢字表に「竪」の字が含まれていなかったため「立」を使ったんだと。残念なこと。

「竪」を「たて」と読ませるのは容易ではないけど、東京で「立川」を「たちかわ」ではなく、「たてかわ」と読ませるのは、もっと困難なはず。どっちにしてもふりがなを振らなければならないなら、もとのままのほうがよかったですよね。

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表札に残る、旧町名。

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旧町名の頃の町会の標識。

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こちらも旧町名の頃(1963年)に建てられた「国旗掲揚塔」。

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竪川橋から見た竪川。

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竪川は東半分は埋められてしまいましたが、このあたりから隅田川にかけての部分は川のまま残されています。川の上には首都高(7号小松川線)。

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2014年1月18日 (土)

與野町の塵芥票と神明神社(さいたま市中央区)

先日、SKE48の個別握手会でさいたまスーパーアリーナに行ったついでに、周辺をウロウロ。SSA最寄りの埼京線の北与野駅、京浜東北線のさいたま新都心駅は、どちらも専用の通路で結ばれていて、地平に降りることはないのですが、個別は早めに終わるので。

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現在は駐車場になっていますが、以前は住宅があったようで、門だけが残っています。

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この門に貼られている標識。左は東京ガスで、都内でもよく見かけます。右は「與野町 塵芥票」となっていて、これは初めてです。

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最近はなくなりましたが、以前は門や玄関に、ガス、電気、水道・下水道、電話、NHK、など世帯との契約を示すものや、日赤、固定資産税の家屋調査済証などが貼られていました。長くお住まいになっている住宅には、これらがそのままになっていて、建物がいつ頃建てられたものか、見当をつける材料になります。

「與」は「与」の旧字で、つまり与野町。このあたりは、現在は「さいたま市中央区上落合一丁目」ですが、2001年にさいたま市成立する前は与野市。北足立郡與野町の市制施行は1958年ですので、50年以上前に貼られたものになります。

現在、家庭から出るごみの処理については廃棄物処理法で規定されていますが、当時は清掃法の時代。その頃は、もしかしたら有料が原則で、自治体と世帯が個別に契約していたのかもしれません。

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この付近の鎮守、神明神社。社殿は最近建てられたもののようですが…

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鳥居の手前にある「国旗掲揚塔」のようなもの。左右対になっているので、祭事のときに笹を建てたりするのかもしれません。

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社殿に向かって右側の塔は、設置時期が不明なのですが、銘に「大宮町」とあります。さいたま市の前身の一つである大宮市。市制が施行される前は北足立郡大宮町。大宮町が存在したのは、町村制が施行された1898(明治22)年から、市制施行の1933(昭和8)年までの間。

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社殿に向かって左側のほうには、設置時期がありました。

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「明治27年5月」とあります。

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神社は、社殿や鳥居は新しくても、それ以外の設備に古いものが残っているものが多いので、チェックは欠かせません。

2013年5月 6日 (月)

【錦糸町界隈】(旧)入江町、東横河岸(東横川岸)

錦糸町~両国間のガード探検も、これでおしまい。

錦糸町駅寄りの(旧)長崎町高架からスタートして、両国駅手前の亀沢町高架橋まで進みましたが、長崎町高架より錦糸町駅のほうにもあるのを見落としてました。

長崎町高架の一つ東隣の入江町高架。

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入江町は震災復興の過程で1930年に消滅した町名。現在は緑4丁目の一部。

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左は震災直前、右は現在の地図。青色の枠は(旧)入江町、右の地図の赤色の線は現在の町境を表します。

消滅して80年を経過し、その名をとどめるものは、上のガードしか見つけることができませんでした。あとは、電柱の標識。

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入江町高架から大横川をはさんで錦糸町駅寄りにある、東横川岸高架。

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上の地図の緑色の枠は「東横河岸」。東横河岸は町名ではなく川に面した部分を、正式の町名とは関係なく、○○河岸と呼んでいたようです。高架の名前も、「東横河岸」とすべきところがこのようになったのではないか、と。

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大横川の名称は、1965年の河川法改正の際、以前の横川と大島川をあわせてこの名称に変わったもので、このあたりの南北の流れは、横川です。横川の東側の河岸なので、東横河岸、かと。

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大横川をまたぐ総武線の橋梁の痕跡については、5年前にまとめてました。
http://homepage1.nifty.com/egota_dp/oyokokawa/2008/200803/20080304/20080304.htm
http://homepage1.nifty.com/egota_dp/oyokokawa/2008/200803/20080304/20080304_2.htm

(おわり)

2013年5月 5日 (日)

【錦糸町界隈】(旧)本所区亀沢町

緑町一丁目高架の一つ西は亀沢町高架橋。この先は両国駅です。

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1929年から30年にかけて本所区亀沢町に再編。戦後、墨田区亀沢町。1966年の住居表示で墨田区亀沢。例によって、地図を並べてみました。

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左の地図は関東大震災直前。青色の線内が当時の亀沢町1丁目。右の地図は最近のもの。赤色の線は、現在の町境です。

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亀沢1丁目の町会の事務所は、1961年の完成。

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当時は、「亀沢町一丁目町会」。現在は「亀沢一丁目町会」。

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亀沢町の表示が残る表札。

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下の街区標示板は現在の住居表示。下の広告に「石原三丁目電停」の表示があるところを見ると、1966年から、都電16系統(大塚駅前~錦糸町駅前)が廃止される1970年までの間に設置されたもの。

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ところで、両国~錦糸朝刊の総武線のガード下は、ほとんどが駐車場や店舗に貸し出されており、ガードの下の様子を見ることは難しいのですが、この亀沢町ガードの近くが、たまたま見られるようになっています。

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レトロな書体の区画番号。近年の耐震強化工事の影響で、完全に見られるのはここだけ。

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証拠がないので何ともいいようがないのですが、かなり古い、どうだかすると1930年の完成当時に書かれたもの、かとも思われます。

(つづく)

2013年4月24日 (水)

【錦糸町界隈】(旧)本所区緑町(その2)、緑町公園

緑町二丁目高架の一つ西は、緑町通り高架(現在の亀沢2-1所在)。

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「緑町通り」という通称が、現在も使われているかどうかはわかりませんでした。

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その次は、緑町一丁目高架。

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例によって、(旧)緑町1~3丁目と現在の地図を並べてみました。

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ほぼ、ですが、旧2丁目、3丁目が現在の緑2丁目に、旧1丁目と(旧)相生町5丁目が現在の緑1丁目にあたります。

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緑町公園(南側)。隣接する図書館は「緑図書館」。

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現在の緑1丁目に所在の「国旗掲揚塔」。後ろのかわらぶきの屋根は質屋さん。

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設置時期は不明。おそらくは戦後。建っているところが唐突な感じがするのですが、近くに町会の事務所があり、その近くに建てる余地がなかったため、ここに建てた、かと。

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ちなみに町会の名称も「緑町一丁目町会」から、現在は「緑一丁目町会」に変更されています。

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こちらは、緑町公園(北側)にある、国旗掲揚塔の跡。

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建てられたのは昭和5年(1930年)。

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このころはまだ「本所区緑町」のはずですので、「緑一/二丁目」の表記は変なのですが、たとえば「緑町一丁目町会」を「緑一町会」と表記することがあったと思われ、うっかりこのような表示になってしまったものと推測。

(つづく)

2013年4月23日 (火)

【錦糸町界隈】(旧)本所区緑町(その1)、墨田緑町郵便局

緑町は現在は「墨田区緑」。1丁目から5丁目が、震災後の1929年1~4丁目に再編されました。

前回の永倉町高架の1つ西は、緑町五丁目高架(現在の亀沢3-2に所在)。

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つづいて、緑町四丁目高架。

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緑町4丁目と5丁目は、現在の緑3丁目。

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緑町三丁目高架(現在の亀沢2-3に所在)。

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緑町二丁目高架(現在の亀沢1-3に所在)。

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現在の緑2丁目には郵便局がありますが、名称は墨田緑町郵便局。

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風景印を押してもらいました。

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(つづく)

2013年4月22日 (月)

【錦糸町界隈】(旧)本所区永倉町、永倉稲荷

長崎町の次は永倉町。これも、現在は存在しない町名です。この公衆便所は、竪川中学校の近く。以前は、永倉公園という公園もあったようですが、いまは見あたりません。

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前回の長崎町高架の一つ西にある永倉第三高架の空頭票。

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その次の、永倉第二高架。

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その次の、永倉第一高架。

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三ツ目通りをまたぐ永倉第1架道橋。

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前回と同じく、関東大震災直前の地図と、現在の地図をならべてみました。

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左の地図にある「本所区」は墨田区の前身で、1878年に設置。1947年に向島区と合併して墨田区が新設。

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緑4丁目にある永倉稲荷。鳥居は、昭和8年の建立。

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このあたりは、東京大空襲で焼け野原になったはずなので、戦果をくぐり抜けた鳥居、ということになります。

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かわいそうに、耳がちぎれてる。

(つづく)

2013年4月21日 (日)

【錦糸町界隈】長崎橋、(旧)本所区長崎町

かつて、大横川にかかっていた長崎橋。現在は、親柱と欄干の一部が残されています。

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30年余り前までは、川が流れていたところ。堤防は当時のままに残されています。

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長崎橋からJR総武線の高架のほうに移動すると、空頭票(上空に構築物がある場合、工事の安全のために、そこまでの高さを周知する表示)を見ると「長崎町」の表示が。

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ガードの名称も「長崎町高架」。

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このあたりは墨田区亀沢4丁目で、住居表示実施前は「墨田区亀沢町」でした。「長崎町」という町名には思い当たらなかったので調べてみたら、1930年頃、震災復興の完了の頃に消滅した地名でした。

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震災直前の地図と現在の地図を並べてみました。左の地図で青色の線で囲まれた部分が、当時の長崎町。これを右の地図にコピーしてみました。

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右の地図が残念なことになっているのは、うっかりIOSをバージョンアップしてしまったためです。ホントに残念なので、現在の町界を赤色の線で、町名を緑色の枠で補足しました。

ちなみに、左の地図で「南割下水」とあるのは、江戸時代に開削されたまさに「下水道」で、両国の米蔵あたりから、雨水を集めながら大横川に流していたそうです。震災後に埋められ、現在は北斎通りとなって面影を見ることはできません。一時は「割下水通り」と呼ばれていた時期もあったようです。

同じく左の地図の下の方の線路は、1918年開業の東京市電。のち、都電25、29、38系統となって、1972年に廃止されました。

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普段、住居表示前の町名を見つけられるよう心がけていますが、そんなに古い町名に行き当たるとは予想外でした。

総武線の高架(電車線)が両国から市川まで開通したのは1933年。これも震災復興の一環だったそうで、工事の計画~実施の頃の町名が、そのままガードの名前になったものと思われます。

ここから両国方向に歩いたのですが、震災復興とともに消えた町名に、次々と出会うことになりました。

(つづく)

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