水辺を歩く

2020年4月16日 (木)

【ぷち暗渠】南長崎5丁目の暗渠

表題はこのようにしたものの、これも手許の古地図では確認が取れません。
もしかしたら、水路跡ではないのかも。

▼地図(goo地図から拝借)

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▼1947年の航空写真(goo地図から拝借)

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歩けるのはA地点からB地点まで。B地点~D地点間は立ち入ることはできません。

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▼A地点から北方。割烹と酒店の間に、人ひとり通るのがやっとの通路があります。

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▼A地点→B地点

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▼空き地。長崎銀座にある笠間稲荷の裏手にあたります。

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▼B地点から南方

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▼B地点の北側

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敷地の形や豊島区の境界標を見る限り、さらに北の方に続いているのかな、とも思われますが、宅地に埋もれて立ち入るのは無理。

(2020/3/22)

【ぷち暗渠】長崎3丁目暗渠(谷端川)

散歩の途中で見つけたもの。
手許の古地図では確認できなかったのですが、過去の航空写真を見る限り、谷端川につながる水路のひとつと思われます。

▼地図(goo地図より拝借)

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上図右の縦の線は谷端川の跡。

▼1947年の航空写真(goo地図より拝借)

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今回は、A→B→Cの順に歩きましたが、Aより東の方にも水路が続いているように見えます。
地図にも、ところどころ痕跡が見て取れますが、宅地に埋もれて立ち入るのは難しそう。

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▼A地点から西方。

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▼A地点→B地点

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豊島区の境界標。

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▼B地点から東方

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▼B地点から西方

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▼C地点から東方。

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▼C地点から東方。

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終点は区立長崎公演。1947の航空写真では農地のようで、ここに水源があったのではないでしょうか。

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(2020/4/14)

2020年4月12日 (日)

【ぷち暗渠】旧籾山牧場の水路跡(旧千川上水→妙正寺川)

きょうも近所を散歩。

南長崎6丁目で、旧千川上水が直角に曲がるあたり。戦前の地図に「籾山牧場」とあり、千川上水の支流が書かれています。

▼1920年頃(東京時層地図から拝借)

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▼1932年頃(東京時層地図から拝借)

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この頃、目白通りは作っている途中。F地点あたりまで開通していて、この部分の水路は埋めて分断されたのか暗渠になったのか。

▼1955年頃(東京時層地図から拝借)

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水路を示す水色の線は、目白通り以北では消滅しています。

▼現在(東京時層地図から拝借)

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目白通り以南の水路も消滅。

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▼A地点から東方。

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千川上水はこの交差点の手前から左へ。今回たどる籾山牧場の水路は直進。

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▼B地点。ここで不自然に道が狭くなります。上の写真で中央の車が止まっているあたりは、まさに水路跡か、と。

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B地点から西方。

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B地点から南方。扉の向こうはマンション付属の自転車置き場です。おそらくこれが水路跡。

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ここに立ち入るわけにはいきませんので、公道を迂回。

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▼C地点。住宅に埋もれて、水路跡を確かめることができません。

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▼D地点。ガソリンスタンドの左端あたりかと思われますが、ここも確認はできず。

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▼D地点→E地点。目白通りを渡って南側から北方。水路は目白通りに埋まっていますが、道路を斜めに突っ切っていたか。

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▼E地点から東方。左は目白通り。右前方の細い道が区境で左は豊島区南長崎6丁目、右は新宿区西落合4丁目。これが水路跡か、と。

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▼E地点からF地点へ。水路跡の雰囲気がありありと。

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▼F地点から西方。     

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▼F地点。左下が新宿区の、右上が東京都の境界標。水路の幅の手がかりになる、かな?

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▼F地点から東方。

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▼G地点手前の不自然な空き地、不自然な緑地。

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▼G地点から南方。ここからさらに水路は続き、目白学園の脇を通って、上高田運動公園のあたりで妙正寺川につながります。

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そちらのルートはずいぶん前にたどって写真もあるはずなのですが、まとめてないですね。なんでだろう。

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ところで、籾山牧場は、昭和初期にはすでに見当たらなくなっています。牧場として存在したのはごく短い期間で、その後宅地として分譲されたとのこと。一方で、併設の牛乳工場は、のちに明治乳業豊島工場として最近まで操業していたとのこと。A地点のあたりに記念碑のようなものがあるようですが、見落としています。

籾山牧場:豊島区の牧場
https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000109

牧歌的な「牧場分譲地」
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2008-09-15

(2020/4/12。一部の写真は3/22)

 

2020年4月 8日 (水)

【ぷち暗渠】南長崎1丁目の暗渠

新型コロナ感染症対策で在宅ワークに移行して4週目に突入。
気分転換と運動不足の解消、生活必需品の買い出しのための夕方の散歩は継続中です。

コースは椎名町方面、東長崎方面を日替わりで、コースは行き当たりばったり。

先日は、南長崎1丁目の暗渠に立ち寄って写真を撮ってきました。

誓願寺の隣にある駐車場[A]。その奥に見える細い道が、ぱぱすの裏を通って[B]、山手通りに突き当たります[C]

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地図はgoo地図です。上図の[A][B][C]を1963年の航空写真に重ねると、うっすらと黒い筋が見えます。
省略していますが、1947年の航空写真でも同様です。

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▼[A]地点から東方。

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▼[A]→[B]

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▼[B]地点から西方。

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▼[B]地点から東方。

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▼[B]→[C]

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▼[C]地点から西方。このあたりが最も雰囲気のあるところ。
 上の写真で左側の小さい建物は、以前は自動販売機が設置されていましたが、ながらく空き家になっています。
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▼[C]地点から東方。山手通りの夕方の渋滞です。

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(2020/4/6)

 

2019年6月 8日 (土)

釜屋堀工場(日本石油精製→小倉石油)

以前、石油元売の変遷図を作ったときに、いくつかわからない箇所があって、これもそのひとつ。

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小倉石油店は、のち小倉石油(株)になり、1941年に日本石油(株)に合併されます。日石の社史で、「1895(明治28)年に、日本石油精製の釜屋堀工場を買収。」とあり、それに基づいて上図のようにしました。

四角の中には会社名を入れたいのですが、当時「日本石油精製」(1951年に設立された会社とは別)についてはさっぱりわからず、釜屋堀工場についても、場所すらわからなかったような気がします。やむなく上図のように、四角の中には工場名を、会社名は括弧書きにせざるを得ませんでした。

先日参加したフィールドワーク「関東震災時 朝鮮人虐殺地を歩く」で、本筋とは関係ないですが江東区大島の当時の様子を紹介するものとして、「小倉石油株式会社東京製油所」の写真が紹介され、変遷図のことを思い出しました。

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このあたりの昔の地図を見ると、確かにあります。猿江恩賜公園の川を挟んで東側。

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そこで、不意に思いあたって、以前から手許にある「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」をみると、ありました、「釜屋堀」が。なんで当時この本にあたらなかったのか…同書によれば、横十間川の別名として「竪川から小名木川の間を釜屋堀ともいう」とあります。フィールドワークで紹介された写真は、間違いなく「釜屋堀工場」です。

さらに、国立国会図書館のデジタルライブラリで検索すると・・・あっさり見つかりました。

▼村上太三郎伝(1939)

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▼日本石油史(1914)

ダウンロード - e697a5e69cace79fb3e6b2b9e58fb2_pp626428e794b0e4bba3e8998ee4ba8ce9838e29.pdf

▼明治工業史・鉱業編(1931)

ダウンロード - e6988ee6b2bbe5b7a5e6a5ade58fb2e383bbe989b1e6a5ade7b7a8_pp934935.pdf

よれば、日本石油精製(株)は、1896(明治29)年10月に設立、釜屋堀の田代虎二郎の製油所跡地(以前は火止油、灯台油を製造)に石油精製所をもうけたもの。日本石油精製の設立には小倉常吉らが関わっているが、釜屋堀工場は後に小倉の個人経営に移行し、会社は新潟に生産の本拠居を移したものの、経営不振で解散、とあります。

変遷図を作った頃にはデジタル化されてなかったのかなー?

ともかくも、変遷図は下記のように修正しました。

20190608_080151

変遷図の全体は、こちらにアップしています。

http://egotadp.biz/sekiyuMotouri/index.htm

2019年6月 5日 (水)

【ぷち暗渠】谷端川の支流

  病院で出された薬ができるのを待つ間に、谷端川の支流跡をたどりました。

参考にした地図はこちら。「東京時層地図」の「昭和戦前期」のもの。

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A地点。左右の道路は目白通り。道路の南側から北方を。

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A地点から北方。通りが筋交いになっていますが、道幅=川幅ではないでしょう。

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流れを想像するのは、ちょっと難しいです。

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さらに進むと路地に。たぶん暗渠になる直前の川幅はこんなものでしょう。

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突き当たりは区の施設で、通り抜けることはできません。迂回します。

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迂回しました。上の写真の反対側で南方を。

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同じ位置で北方を。まもなくゴールです。

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B地点で東方を。谷端川の下流方向。

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同じ地点で西方、上流方向を。奥に見えるのは山手通りの陸橋。

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B地点で南方を。右手の施設は、以前は豊島区立真和中学校でしたが・・・

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現在は別の用途に。

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旧・道和中と旧・真和中がに統合され、2005年4月に西池袋中が旧・真和中(上の写真)で開校。旧・道和中の改修工事が完了し、翌2006年4月に西池袋中が移転。つまり上の写真の西池袋中学は1年限りだった、ということ。

谷端川の本流も、B地点付近では面影はありませんが、道路の形は川の流れのままで、もう少し北方(下流方向)に進むと公園として整備されています。

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ところで、地図ではA地点から先がどうなっているのかはわかりません。この頃の地図は、区境が水路と同じ薄い青色でなぞられていて、区別がつきません(たぶん豊島区と新宿区の境は水路ではないと思います)。

ネットで見つかる他の記事では、A~B間の途中で西に折れて進んだ先が水源地、とする記事もあります。確かに水路跡とおぼしき細道が西の方に進んでいるところもあります。

A地点から南方を見ると、つながっているようには見えませんが、このビルの先は谷になっていて、もしかして川跡?と思わせるような風景も見えます。そしてその先には妙正寺川が。

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上の地図と同じ範囲の「関東大震災直前」のもの。上の地図とは10年ほどの違いしかありませんが、まるで雰囲気が違います。

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田畑が目立つこの地域が、関東大震災のあと急激に宅地化し、それまで農地を潤していた水路をひとまずとりまとめられたが、わりと早い時期に暗渠になった、と見るべきなんでしょうか。

2018年9月30日 (日)

【切り抜き】東京都 大規模水害時、避難用電車・バス夜間に臨時運行へ

元の記事
https://www.facebook.com/mochizuki.kazuo/posts/1311140925689602

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毎日新聞
東京都 大規模水害時、避難用電車・バス夜間に臨時運行へ
毎日新聞2018年9月1日 10時08分(最終更新 9月1日 10時08分)

 首都圏で西日本豪雨のような大規模水害が予想される場合、東京都は、住民が域外避難に利用する電車やバスを夜間でも臨時運行する方向で、交通事業者と検討に入った。広域避難を円滑にし、人的被害を少なくするのが目的で、来年度に計画をとりまとめる方針。

 都などによると、中心気圧が910ヘクトパスカル程度の最大級の台風が上陸し、高潮が発生すると、東京の東部を中心に23区の3分の1の面積(約212平方キロ)が浸水すると予想されている。堤防の決壊などで1週間以上、水が引かない地域が広範囲で出るとみられている。

 さらに、荒川と江戸川が同時に氾濫すれば、江東5区(墨田、江東、足立、葛飾、江戸川)で、人口の9割が住む地域が水没するおそれがある。

 一方、都内の鉄道事業者は危険回避のため、関東を直撃した「カスリーン台風」(1947年)級の台風の通過が予想されるとき、堤防決壊の可能性が高まる12時間前には地下鉄の運行をやめることになっている。6時間前には、全ての鉄道がストップする。このため、都は決壊の可能性が低い時間帯が夜間であれば、バスを含めて臨時運行できないか、交通事業者と検討を進めている。

 重要なのは、交通網を使って、どれだけ早く避難を始められるかだ。国の試算によると荒川と江戸川が同時に氾濫すれば、江東5区で暮らす255万人のうちの178万人は避難が必要になる。住民の9割以上が避難を終えるまでに17時間程度かかると見込まれている。

 都は現在、交通事業者に聞き取りをし、課題の洗い出しを進めているが、日中に避難が必要な場合は、ダイヤを組み替えて増便し、スムーズな避難につなげることも検討している。担当者は「将来的には、交通事業者との協定を結び、地域防災計画へ盛り込むなどして実効性を高めたい」と話す。【最上和喜】

カスリーン台風
 1947年9月半ば、東海から関東沿岸を通過し、群馬県(総雨量318ミリ)を中心に「200年に1度」の記録的豪雨をもたらした。利根川の堤防(埼玉県加須市)が決壊したのをはじめ渡良瀬川や中川、綾瀬川など支流を含め計24カ所の堤防延べ5・9キロが決壊。洪水は江戸川区まで流れ下り、浸水家屋は1都5県で30万戸、計1100人の死者が出た。

2018年3月16日 (金)

【昼暗渠】最勝寺の北側の水路跡

(承前) 【昼暗渠】妙正寺川支川(中井駅付近で合流) その2
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/2-638d.html

中井駅の近くで妙正寺川に合流する支川については、上記の記事にあるとおりです。わりと最近(といっても5~60年前)の地図で水路を示す水色の線があるものは、たいていは容易にたどることができます。【地図1】の緑色の線がそれにあたります。

【地図1】

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この支川には、さらに時代を遡るといくつかの支流があることがわかっています。上の地図では、緑色の線が妙正寺川に合流する手前でほぼ直角に曲がるところから、東の方に伸びている青色の細い線はそのひとつ。この支川は戦後(5~60年前)の地図にも、戦前のにも描かれておらず・・・

【地図2】

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大正期の地図まで戻って、ようやく現れます。【地図2】のA-B-F-Gの線がそれにあたります。このあたり、妙正寺川に向かって斜面になっているところで、現在は民家がびっしり建っていますが、この頃は川の両側はほとんど田んぼですね。

こんな古い水路の痕跡なんて、もう見つけることは無理だろう、と思っていたのですが、仕事場の行き帰りや昼休みに出歩くと、どうも怪しいポイントがちらほら・・・試しに地図の重ね合わせを細かくやってみると、どうも行けるんじゃないか、と。

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で、まずは、緑色の線がほぼ直角に曲がる部分。東方向。右(北方向)に妙正寺川。右手の段差に沿って水路があったものと思われます。

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これをまっすぐ進むわけにはいかないので迂回すると…

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説明しづらいので、先にまとめの地図を。A-B間は通れないので、北側を迂回します。

【地図3】

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すると、手前の民家と奥の段差(石垣)の間に空間が。

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ここまでの写真では、いまひとつわかりにくいかもしれませんが、【地図3】のB地点から見ると(西方向)、民家と段差の間に、明らかに区切られた空間があります。手前が下流にあたるので、標高差の説明がつきませんが、最近建てられた建物の裏に当たる部分は、補強のためのかさ上げをしているのかな、と想像してみます。

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このスキマの空間の所有がどうなっているのかは、さっぱりわかりません。

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B地点からC地点へ(北方向)は下り坂。左側に側溝がありますが、水路は左手前から右方向へ(あるいは右端に)流れていたのではないか、と。

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C地点まで降りたところ。

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その右端。なんとなく水路跡の雰囲気。右側は一段高くなっています。

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この駐車場の部分は直接に見ることができますが・・・

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段差は、落合第五小学校の敷地になってたどることはできなくなります。【地図3】C-D間の点線の部分です。

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学校の南側を迂回してD地点へ。

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ニャン渠

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D地点から西方向。校庭の南側の段差に接するところが、たぶん水路跡。左手からの流れが、中央の木のあたりで手前にほぼ直角に曲がっていた、と思われる。

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D地点から落合第五小学校の裏門に降りてきたところ。右の方(東方向)に、山手通りをくぐる通路があるのですが、水路はここを通っていたのではなさそう。

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D地点から山手通りの向こう側(東方向)を見たところ。ここからは、水路がどう通っていたのか、判然としません。

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ということで、山手通りを渡って見ると、なんとなく雰囲気が。E地点。

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左側(南方向)は一段高くなっています。東京信用金庫中井駅前支店を含むマンション。

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その北側のマンションの敷地に吸い込まれて、たどることはできません。

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かなり遠回りして、中井駅北口の通りに。商品が陳列されていてわかりにくいのですが、たぶん、右側の青果店と左側(南側)のマンションの間が水路跡ではないか、と。F地点。

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段差をのぞき込むがスキマはもはやありません。

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F地点から中井駅方向(北方向)へはなだらか下り坂。水路は左側にあったと思われます。心なしか、道が左方向に膨らんでいるような…

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寺斉橋を渡って妙正寺川の対岸からG地点を見たところ(南方向)。F地点からG地点に至ったところに樋管が見えます。ふさがれてしまっていますが。

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橋の下の樋管は現役。あるいは洪水対策で地下神殿に通じる排水口?

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近くにもう1個、低い位置に樋管がありますが、大江戸線の漏水を流しているとのことです。

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D地点に戻って位置を確認。背後の落合第五小学校の校庭の南端からまっすぐに山手通りを突っ切り、右の東京信用金庫と左の民家の間につながっていたものと思います。

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かなり昔に消滅した水路の痕跡を、ほぼほぼ全線で見つけることができたのは予想外でした。

2018年3月11日 (日)

【昼暗渠】妙正寺川支川(中井駅付近で合流) その3

(承前)【昼暗渠】妙正寺川支川(中井駅付近で合流) その2
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/2-638d.html

上の記事で、「大正あたりまで遡ると、それ以外にも黄色の線のような水路があったようです。といっても宅地化する前なので、どの程度痕跡があるものか。」と書きましたが、どうにも気になって、雨が降りそうなのに確認に行ってきました。

下の地図で、緑色の線に黄色の線がくっついているところです。

Map1current

▼緑色の線が突き当たりで右(東)に直角に曲がるところ。

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▽突き当たりの建物と手前の建物の間にスキマが。西方向。

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▽幅的にも道義的にもここを通る勇気はないなー。

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▼ということで、大回りして反対側に。東方向。

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▽左側は新宿区、右側は私有地の境界標。

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▽少し奥に入ったところの右側にある境界標は新宿区。

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▽ということは、この舗装の部分は新宿区道。とはいうものの、左側の民家からは丸見えで、とても通り抜ける気にはなれません。

しかし、緑色の線だけでなく黄色の線(水路)についても、痕跡があることがわかりました。角の所はいつも車が止まっていて、先週通過したときも、その奥は気にしたことがありませんでした。きょうは車が止まっていなかったのが幸いしました。

舗装も塀も金網も、最近のもののようですが、数年前に一度来たときは、どんな状態だったのか…

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▼その「新宿区道」を抜けたところから反対側を見たところ。西方向。こちらは通り抜けられる様子ではありません。

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▽迂回して反対側に向かう途中。このあたり、山の斜面を削った所ですが、奥の段差のところが水路跡か?

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▽反対側に回ったところ。東方向。上の写真の灰色の壁の上の部分です。

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▼その反対側。西方向。なにやら妙な扉が。

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▽扉の用をなさない。

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▽蓋がけ暗渠?

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▽塀の手前に水路が。南方向。塀の向こうは民間のマンション。手前は都有地。以前は以前は都営住宅があったようです。といっても集合住宅ではなく木造の1戸建て。現在は、都営上高田四丁目アパートに姿を変えています。

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▽立ち入り禁止の空き地を迂回したところ。東方向。

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▽立入禁止ではないので歩くことはできますが、通り抜けるのは困難。

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▽西方向。歩けます。右側は民間のアパート。

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▽ここから先も進むことはできそうですが…

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▽なにかの作業場のようです。

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▽ここでまた空き地(都有地)を迂回。

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▽反対側に。東方向。

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▽同じ地点で西方向。この塀の先は(旧)住宅・都市整備公団が建てた上高田4丁目団地。ここから先は痕跡はなさそう。

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▽同じ地点で南方向。山の上は寺院や墓地のなかに住宅が点在するところ。

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なんともないようですが、この時点でかなり強い雨が降っています。きょうはここで中断。

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▼この記事でたどったところを、goo地図に線を引いてみました。

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A-B間が私有地のスキマの新宿区道。C-D間が都有地の蓋がけ暗渠。

▼最近の航空写真。C-D間の南側は民間のマンション。その南は寺院と墓地。暗渠と民間のマンションのスキマに民間のアパートが数棟。

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▼1963年の航空写真。上の写真のマンションのうち、中央の一棟がすでに完成していた様子。暗渠の北側は家屋がびっしり。たぶん都営住宅です。いまでは想像つきにくいですが、木造1戸建ての都営住宅が、30年ぐらい前まではまだあちこちにありました。いまではほとんど鉄筋コンクリートの集合住宅に建て替えられてしまいましたが。

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▼1947年の航空写真。すでにこの時点で妙正寺川の流路整備は完了しています。青色の線は水路跡の一部で、今回痕跡があることを期待して引いたのですが、それとして見つけることはできませんでした。

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翌日、雨も上がり、改めて周辺を歩いてみましたが、これ以外の痕跡はなさそうです。民家やアパートの敷地のかたちに、なんとなーくそのような雰囲気がなくもないですが、立ち入ることができない場所だったりして、確認はできません。

そもそも、黄色の線が地図に現れるのは100年も前のことで、このあたり一面が水田だった頃の話。民家の敷地のスキマのような区道だったり、側溝のような蓋がけ暗渠を見つけることができただけでも、とても心躍るような出来事でした。

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おまけのニャン渠。塀のスキマで偶然目が合ったフッサフサ。

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▽風邪引き猫。すんごくかわいい声で鳴く。

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2018年3月 3日 (土)

【昼暗渠】妙正寺川支川(中井駅付近で合流) その1

今週の昼休み暗渠は、妙正寺川の支川です。例によって、東京時層地図を拝借。左下から右上にかけての水色の線がそれにあたります。

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この水路跡は、数年前に通しで歩いています。そのときは別の地図(1963(昭和38)年の都市計画地図・中野区)を参考にしました。そのときのスタートは中野五丁目の柳通りで、「えっ? ここ?」みたいな細い道を、中井駅のすぐ近くまで歩いたのでした。

東京時層地図の「高度成長期前夜」では、上図の区間が開渠として示されています。実際、昼休みに行って戻ってくるには、この程度が限界でしょう。

上図のちょうど真ん中あたりに道が二又に分かれるところがあります。ここを境に、左端の天徳院の裏手からこの二又までを1日、二又から中井駅付近の合流点までを1日でたどる計画です。

一度たどったコースではありますが、明治~大正~戦後で、流路も微妙に変わっているようにも思われ、念のため地図を用意しました。

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猫と暗渠。ニャン渠。

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地図にある天徳院の裏手に向かってみると、いきなり前回とは違う風景が…

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こんな階段、あったっけ? 右の石垣、排水を落としていた形跡。この階段そのものが水路跡?

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階段を降りると直角に右折。角は完全にふさがった状態。

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そしてまた階段。

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右(南)の石垣に沿って細い道が続いてますが、以前歩いた道はもう一本北にある細い道。

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▼現在の地図に線を引いてみた。現在の地図に関してはiPadの地図(iOS付属の地図)は使い物にならないので、goo地図(元ネタはゼンリン)を拝借。

上の写真の位置は、赤色の線の左端。青色の線は前回歩いた道。

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▼明治期、大正期、戦後期の水路を、地理院地図に重ねたところ。地図の誤差や画像を重ねたときのずれもあろうが、水路の位置が多少移動したのは間違いないと思われ、上手の赤色の線も青色の線も、どちらも水路跡と思われます。

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ということで、今回は、赤色の線を歩くことにします。このあたりは、明治から大正にかけて都心部から移ってきた寺院が多いところで、右の石垣の上は墓地です。

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▼細い道が水路跡らしいカーブを描きながら続いており、突き当たりに。上のgoo地図の赤色の線の右端にあたります。

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▽アパートの敷地に入るわけにはいきません。石垣に沿って水路が続いていたようにも見えますが、この先は上の敷地が張り出していて、ここで左(北)に折れて青色の線に合流すると見るのが自然かもしれません。

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▼goo地図の青色の線の左端。ここで水路は区立白桜小学校(旧・中野昭和小学校)の敷地に吸い込まれています。ここからしばらくは歩いてたどることはできません。

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▼ぐるっと回って学校の敷地の東側に。突き当たりは民家の庭。その向こうが学校の校庭です。水路は学校の校庭の南端を通って、ここにつながっていたはずです。

ここまでの写真は下流方向を向いて写したものですが、ここから後は上流方向を向いて写しています。

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なんとなく、水辺だった風情。

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いまは使われていない石段。

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▼上の写真の反対側。下流方向。最初の地図で道が二股に分かれているところです。この部分は左のお宅の敷地になっていて通ることはできません。

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この日はここまで。続きは別の記事で。

暗渠が、道路と一体化して跡形もなくなっているのは残念ですが、緑道公園になって、以前は川だったんですよ、というのも楽しみが薄れるような気がします。

妙正寺川につながっているというだけで、名前があったのかどうかもわからない水路跡ですが、地図にも、実際にも、かつて川だったけど、いまは内緒、という雰囲気が感じられる、このぐらいの暗渠が、歩いていても一番楽しく思われます。

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