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水辺を歩く

2018年9月30日 (日)

【切り抜き】東京都 大規模水害時、避難用電車・バス夜間に臨時運行へ

元の記事
https://www.facebook.com/mochizuki.kazuo/posts/1311140925689602

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毎日新聞
東京都 大規模水害時、避難用電車・バス夜間に臨時運行へ
毎日新聞2018年9月1日 10時08分(最終更新 9月1日 10時08分)

 首都圏で西日本豪雨のような大規模水害が予想される場合、東京都は、住民が域外避難に利用する電車やバスを夜間でも臨時運行する方向で、交通事業者と検討に入った。広域避難を円滑にし、人的被害を少なくするのが目的で、来年度に計画をとりまとめる方針。

 都などによると、中心気圧が910ヘクトパスカル程度の最大級の台風が上陸し、高潮が発生すると、東京の東部を中心に23区の3分の1の面積(約212平方キロ)が浸水すると予想されている。堤防の決壊などで1週間以上、水が引かない地域が広範囲で出るとみられている。

 さらに、荒川と江戸川が同時に氾濫すれば、江東5区(墨田、江東、足立、葛飾、江戸川)で、人口の9割が住む地域が水没するおそれがある。

 一方、都内の鉄道事業者は危険回避のため、関東を直撃した「カスリーン台風」(1947年)級の台風の通過が予想されるとき、堤防決壊の可能性が高まる12時間前には地下鉄の運行をやめることになっている。6時間前には、全ての鉄道がストップする。このため、都は決壊の可能性が低い時間帯が夜間であれば、バスを含めて臨時運行できないか、交通事業者と検討を進めている。

 重要なのは、交通網を使って、どれだけ早く避難を始められるかだ。国の試算によると荒川と江戸川が同時に氾濫すれば、江東5区で暮らす255万人のうちの178万人は避難が必要になる。住民の9割以上が避難を終えるまでに17時間程度かかると見込まれている。

 都は現在、交通事業者に聞き取りをし、課題の洗い出しを進めているが、日中に避難が必要な場合は、ダイヤを組み替えて増便し、スムーズな避難につなげることも検討している。担当者は「将来的には、交通事業者との協定を結び、地域防災計画へ盛り込むなどして実効性を高めたい」と話す。【最上和喜】

カスリーン台風
 1947年9月半ば、東海から関東沿岸を通過し、群馬県(総雨量318ミリ)を中心に「200年に1度」の記録的豪雨をもたらした。利根川の堤防(埼玉県加須市)が決壊したのをはじめ渡良瀬川や中川、綾瀬川など支流を含め計24カ所の堤防延べ5・9キロが決壊。洪水は江戸川区まで流れ下り、浸水家屋は1都5県で30万戸、計1100人の死者が出た。

2018年3月16日 (金)

【昼暗渠】最勝寺の北側の水路跡

(承前) 【昼暗渠】妙正寺川支川(中井駅付近で合流) その2
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/2-638d.html

中井駅の近くで妙正寺川に合流する支川については、上記の記事にあるとおりです。わりと最近(といっても5~60年前)の地図で水路を示す水色の線があるものは、たいていは容易にたどることができます。【地図1】の緑色の線がそれにあたります。

【地図1】

Nakai1

この支川には、さらに時代を遡るといくつかの支流があることがわかっています。上の地図では、緑色の線が妙正寺川に合流する手前でほぼ直角に曲がるところから、東の方に伸びている青色の細い線はそのひとつ。この支川は戦後(5~60年前)の地図にも、戦前のにも描かれておらず・・・

【地図2】

Nakai1taisho

大正期の地図まで戻って、ようやく現れます。【地図2】のA-B-F-Gの線がそれにあたります。このあたり、妙正寺川に向かって斜面になっているところで、現在は民家がびっしり建っていますが、この頃は川の両側はほとんど田んぼですね。

こんな古い水路の痕跡なんて、もう見つけることは無理だろう、と思っていたのですが、仕事場の行き帰りや昼休みに出歩くと、どうも怪しいポイントがちらほら・・・試しに地図の重ね合わせを細かくやってみると、どうも行けるんじゃないか、と。

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で、まずは、緑色の線がほぼ直角に曲がる部分。東方向。右(北方向)に妙正寺川。右手の段差に沿って水路があったものと思われます。

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これをまっすぐ進むわけにはいかないので迂回すると…

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説明しづらいので、先にまとめの地図を。A-B間は通れないので、北側を迂回します。

【地図3】

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すると、手前の民家と奥の段差(石垣)の間に空間が。

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ここまでの写真では、いまひとつわかりにくいかもしれませんが、【地図3】のB地点から見ると(西方向)、民家と段差の間に、明らかに区切られた空間があります。手前が下流にあたるので、標高差の説明がつきませんが、最近建てられた建物の裏に当たる部分は、補強のためのかさ上げをしているのかな、と想像してみます。

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このスキマの空間の所有がどうなっているのかは、さっぱりわかりません。

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B地点からC地点へ(北方向)は下り坂。左側に側溝がありますが、水路は左手前から右方向へ(あるいは右端に)流れていたのではないか、と。

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C地点まで降りたところ。

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その右端。なんとなく水路跡の雰囲気。右側は一段高くなっています。

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この駐車場の部分は直接に見ることができますが・・・

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段差は、落合第五小学校の敷地になってたどることはできなくなります。【地図3】C-D間の点線の部分です。

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学校の南側を迂回してD地点へ。

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ニャン渠

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D地点から西方向。校庭の南側の段差に接するところが、たぶん水路跡。左手からの流れが、中央の木のあたりで手前にほぼ直角に曲がっていた、と思われる。

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D地点から落合第五小学校の裏門に降りてきたところ。右の方(東方向)に、山手通りをくぐる通路があるのですが、水路はここを通っていたのではなさそう。

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D地点から山手通りの向こう側(東方向)を見たところ。ここからは、水路がどう通っていたのか、判然としません。

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ということで、山手通りを渡って見ると、なんとなく雰囲気が。E地点。

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左側(南方向)は一段高くなっています。東京信用金庫中井駅前支店を含むマンション。

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その北側のマンションの敷地に吸い込まれて、たどることはできません。

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かなり遠回りして、中井駅北口の通りに。商品が陳列されていてわかりにくいのですが、たぶん、右側の青果店と左側(南側)のマンションの間が水路跡ではないか、と。F地点。

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段差をのぞき込むがスキマはもはやありません。

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F地点から中井駅方向(北方向)へはなだらか下り坂。水路は左側にあったと思われます。心なしか、道が左方向に膨らんでいるような…

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寺斉橋を渡って妙正寺川の対岸からG地点を見たところ(南方向)。F地点からG地点に至ったところに樋管が見えます。ふさがれてしまっていますが。

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橋の下の樋管は現役。あるいは洪水対策で地下神殿に通じる排水口?

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近くにもう1個、低い位置に樋管がありますが、大江戸線の漏水を流しているとのことです。

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D地点に戻って位置を確認。背後の落合第五小学校の校庭の南端からまっすぐに山手通りを突っ切り、右の東京信用金庫と左の民家の間につながっていたものと思います。

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かなり昔に消滅した水路の痕跡を、ほぼほぼ全線で見つけることができたのは予想外でした。

2018年3月11日 (日)

【昼暗渠】妙正寺川支川(中井駅付近で合流) その3

(承前)【昼暗渠】妙正寺川支川(中井駅付近で合流) その2
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/2-638d.html

上の記事で、「大正あたりまで遡ると、それ以外にも黄色の線のような水路があったようです。といっても宅地化する前なので、どの程度痕跡があるものか。」と書きましたが、どうにも気になって、雨が降りそうなのに確認に行ってきました。

下の地図で、緑色の線に黄色の線がくっついているところです。

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▼緑色の線が突き当たりで右(東)に直角に曲がるところ。

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▽突き当たりの建物と手前の建物の間にスキマが。西方向。

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▽幅的にも道義的にもここを通る勇気はないなー。

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▼ということで、大回りして反対側に。東方向。

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▽左側は新宿区、右側は私有地の境界標。

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▽少し奥に入ったところの右側にある境界標は新宿区。

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▽ということは、この舗装の部分は新宿区道。とはいうものの、左側の民家からは丸見えで、とても通り抜ける気にはなれません。

しかし、緑色の線だけでなく黄色の線(水路)についても、痕跡があることがわかりました。角の所はいつも車が止まっていて、先週通過したときも、その奥は気にしたことがありませんでした。きょうは車が止まっていなかったのが幸いしました。

舗装も塀も金網も、最近のもののようですが、数年前に一度来たときは、どんな状態だったのか…

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▼その「新宿区道」を抜けたところから反対側を見たところ。西方向。こちらは通り抜けられる様子ではありません。

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▽迂回して反対側に向かう途中。このあたり、山の斜面を削った所ですが、奥の段差のところが水路跡か?

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▽反対側に回ったところ。東方向。上の写真の灰色の壁の上の部分です。

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▼その反対側。西方向。なにやら妙な扉が。

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▽扉の用をなさない。

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▽蓋がけ暗渠?

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▽塀の手前に水路が。南方向。塀の向こうは民間のマンション。手前は都有地。以前は以前は都営住宅があったようです。といっても集合住宅ではなく木造の1戸建て。現在は、都営上高田四丁目アパートに姿を変えています。

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▽立ち入り禁止の空き地を迂回したところ。東方向。

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▽立入禁止ではないので歩くことはできますが、通り抜けるのは困難。

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▽西方向。歩けます。右側は民間のアパート。

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▽ここから先も進むことはできそうですが…

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▽なにかの作業場のようです。

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▽ここでまた空き地(都有地)を迂回。

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▽反対側に。東方向。

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▽同じ地点で西方向。この塀の先は(旧)住宅・都市整備公団が建てた上高田4丁目団地。ここから先は痕跡はなさそう。

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▽同じ地点で南方向。山の上は寺院や墓地のなかに住宅が点在するところ。

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なんともないようですが、この時点でかなり強い雨が降っています。きょうはここで中断。

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▼この記事でたどったところを、goo地図に線を引いてみました。

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A-B間が私有地のスキマの新宿区道。C-D間が都有地の蓋がけ暗渠。

▼最近の航空写真。C-D間の南側は民間のマンション。その南は寺院と墓地。暗渠と民間のマンションのスキマに民間のアパートが数棟。

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▼1963年の航空写真。上の写真のマンションのうち、中央の一棟がすでに完成していた様子。暗渠の北側は家屋がびっしり。たぶん都営住宅です。いまでは想像つきにくいですが、木造1戸建ての都営住宅が、30年ぐらい前まではまだあちこちにありました。いまではほとんど鉄筋コンクリートの集合住宅に建て替えられてしまいましたが。

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▼1947年の航空写真。すでにこの時点で妙正寺川の流路整備は完了しています。青色の線は水路跡の一部で、今回痕跡があることを期待して引いたのですが、それとして見つけることはできませんでした。

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翌日、雨も上がり、改めて周辺を歩いてみましたが、これ以外の痕跡はなさそうです。民家やアパートの敷地のかたちに、なんとなーくそのような雰囲気がなくもないですが、立ち入ることができない場所だったりして、確認はできません。

そもそも、黄色の線が地図に現れるのは100年も前のことで、このあたり一面が水田だった頃の話。民家の敷地のスキマのような区道だったり、側溝のような蓋がけ暗渠を見つけることができただけでも、とても心躍るような出来事でした。

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おまけのニャン渠。塀のスキマで偶然目が合ったフッサフサ。

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▽風邪引き猫。すんごくかわいい声で鳴く。

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2018年3月 3日 (土)

【昼暗渠】妙正寺川支川(中井駅付近で合流) その1

今週の昼休み暗渠は、妙正寺川の支川です。例によって、東京時層地図を拝借。左下から右上にかけての水色の線がそれにあたります。

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この水路跡は、数年前に通しで歩いています。そのときは別の地図(1963(昭和38)年の都市計画地図・中野区)を参考にしました。そのときのスタートは中野五丁目の柳通りで、「えっ? ここ?」みたいな細い道を、中井駅のすぐ近くまで歩いたのでした。

東京時層地図の「高度成長期前夜」では、上図の区間が開渠として示されています。実際、昼休みに行って戻ってくるには、この程度が限界でしょう。

上図のちょうど真ん中あたりに道が二又に分かれるところがあります。ここを境に、左端の天徳院の裏手からこの二又までを1日、二又から中井駅付近の合流点までを1日でたどる計画です。

一度たどったコースではありますが、明治~大正~戦後で、流路も微妙に変わっているようにも思われ、念のため地図を用意しました。

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猫と暗渠。ニャン渠。

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地図にある天徳院の裏手に向かってみると、いきなり前回とは違う風景が…

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こんな階段、あったっけ? 右の石垣、排水を落としていた形跡。この階段そのものが水路跡?

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階段を降りると直角に右折。角は完全にふさがった状態。

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そしてまた階段。

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右(南)の石垣に沿って細い道が続いてますが、以前歩いた道はもう一本北にある細い道。

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▼現在の地図に線を引いてみた。現在の地図に関してはiPadの地図(iOS付属の地図)は使い物にならないので、goo地図(元ネタはゼンリン)を拝借。

上の写真の位置は、赤色の線の左端。青色の線は前回歩いた道。

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▼明治期、大正期、戦後期の水路を、地理院地図に重ねたところ。地図の誤差や画像を重ねたときのずれもあろうが、水路の位置が多少移動したのは間違いないと思われ、上手の赤色の線も青色の線も、どちらも水路跡と思われます。

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ということで、今回は、赤色の線を歩くことにします。このあたりは、明治から大正にかけて都心部から移ってきた寺院が多いところで、右の石垣の上は墓地です。

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▼細い道が水路跡らしいカーブを描きながら続いており、突き当たりに。上のgoo地図の赤色の線の右端にあたります。

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▽アパートの敷地に入るわけにはいきません。石垣に沿って水路が続いていたようにも見えますが、この先は上の敷地が張り出していて、ここで左(北)に折れて青色の線に合流すると見るのが自然かもしれません。

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▼goo地図の青色の線の左端。ここで水路は区立白桜小学校(旧・中野昭和小学校)の敷地に吸い込まれています。ここからしばらくは歩いてたどることはできません。

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▼ぐるっと回って学校の敷地の東側に。突き当たりは民家の庭。その向こうが学校の校庭です。水路は学校の校庭の南端を通って、ここにつながっていたはずです。

ここまでの写真は下流方向を向いて写したものですが、ここから後は上流方向を向いて写しています。

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なんとなく、水辺だった風情。

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いまは使われていない石段。

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▼上の写真の反対側。下流方向。最初の地図で道が二股に分かれているところです。この部分は左のお宅の敷地になっていて通ることはできません。

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この日はここまで。続きは別の記事で。

暗渠が、道路と一体化して跡形もなくなっているのは残念ですが、緑道公園になって、以前は川だったんですよ、というのも楽しみが薄れるような気がします。

妙正寺川につながっているというだけで、名前があったのかどうかもわからない水路跡ですが、地図にも、実際にも、かつて川だったけど、いまは内緒、という雰囲気が感じられる、このぐらいの暗渠が、歩いていても一番楽しく思われます。

2018年2月18日 (日)

【お昼休みに暗渠】神田川(旧神田上水)の流路変更

(承前)

【お昼休みに暗渠】谷戸川の支川
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-284a.html
【お昼休みに暗渠】中野区小滝町の煙突
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-8ff0.html

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痕跡を見つけるのが難しそうな谷戸川の支川をたどるために、新旧の地図を見比べていて気づいたのですが、神田川(旧・神田上水)の流路変更の名残がいまに残っているように見受けられました。

▽左は大正期、右は戦前期の地図。流路変更は戦前にはほぼ終わっていて、旧・東中野小学校(現在、中野三中があるところ)は、だだっ広いはらっぱだったそうです。

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▽戦前期の地図にある変更前の流路の名残をなぞって、戦後期の地図と合成。緑色の線のあたり、旧流路の内側が空き地のままだったり、旧流路の部分を避けて建物が建っていたり。

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▽最近の地図と合成。新宿区側は旧流路の面影はなさそう。一方、中野区側は、建物の向きが、神田川を基準にして平行でなかったり、垂直でなかったり。

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▼戦前期の地図につけた「流路変更(1)」のところ。写真が下手でイヤになりますが、左のマンションは、湾曲した造りになっています。

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▽網の右側は神田川沿いの遊歩道。マンションの敷地との外周との間にスキマが。

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▽「流路変更(1)」の旧流路の内側は、現在は駐車場。

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▽こちらのマンションも、神田川に平行にはなっていません。

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▽公園ではなく、マンションの庭。マンションとは生け垣で区切られています。 

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▽「流路変更(1)」の北の端から南の方を写したもの。左の歩道は現在の神田川に沿ったもの。庭の生け垣と駐車場の塀が、旧流路の名残になっています。

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▼「流路変更(2)」の部分。私有地の境界のブロック塀が湾曲しているのがわかります。旧流路の名残。

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▽ただ、(1)と違って、神田川の側からは全体が見通せません。建物が、神田川に対して垂直になっていないのだけはわかります。

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▽建物の正面に回ってみました。正面の白い建物が、旧流路の内側にあるもの。右の建物と平行になってません。

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▽2つ上の写真のブロック塀の続き。わかりにくいですが、湾曲してます。

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なにぶんマンションの敷地内なので、パシャパシャ取るわけにも行かず、このぐらいが限界か、と。

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地図には印は付けていませんが、別の記事で書いたJRの独身寮と中野三中の敷地も、旧流路の影響を受けています。

▼左の建物はJR独身寮。このわずかなくぼみが旧流路の名残。正面は中野三中。左下に境界標が見えますが…

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▽新宿区の境界標。これより下が区有地もしくは区管理地であることを示しているのですが、遊歩道の縁から約1メートル外側に食い込んでいます。旧流路の内側が、誰にも払い下げられず国有地→区管理のままになっちゃった、ということでしょう。

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▽2つ上の写真の続き。中野三中の校庭に向かって、JR寮の塀が続いています。

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▽少し引いた写真。土地の境目が不自然なのは、そういう理由がありました。

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廃川跡ではなく、流路変更の跡をたどったのは、実は今回が初めてです。江古田川や妙正寺川でも、そういう場所がいくつもあるのを知っていますが、戦前に流路が変更されたところは、道路、住宅になって定着してしまっていて、道がくねくねしている、という以外に見所に乏しいように感じていたためです。

今回、最近の地図で建物の向きが変、というのにようやく気づいて、そういう痕跡を探す楽しさを覚えました。

2018年2月12日 (月)

【お昼休みに暗渠】谷戸川の支川

神田川の支川の桃園川、の支川の谷戸川、のそのまた支川は、分岐点からJR中央線の線路の南のあたりまでは、その痕跡がはっきりしていてたどって楽しいルートです。

そこから北の部分は、暗渠になった時期が相当古い(おそらく戦前)ようで、面影はほとんどありません。今回は、「東京時層地図」にかなりお世話になりました。

▼戦前期

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▼戦後期

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▼現在

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地図左下の青色になぞった線が、谷戸川の支川です。現在の地図で、青色の線の上端のあたりにある郵便局の記号は東中野郵便局、学校の記号は(現在は)区立中野三中を示します。戦前の地図では、水路を示す水色の線がこのあたりまで延びています(戦後の地図では消えています)。

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ちなみに「(現在は)区立中野三中」と書いたのは、戦前にこの場所にあったのは、旧・区立東中野小学校だからです。当時の東中野小学校(東中野尋常小学校)は1937(昭和7)年に開校。1945(昭和20)年5月25日夜の空襲(山の手大空襲)で消失、1946(昭和21)年3月に閉校になりました。

その後、1956(昭和31)年に、元の場所の少し北の所に新たに東中野小学校が開校しますが、2009(平成21)年の学校再編で、これも閉校になってしまいました。

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このように、ルートは地図で確認するしかなさそうなので、しっかり印刷して出かけます。

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▼東中野駅東口の北側の階段を降り、新宿寄りにある階段をさらに降りると・・・

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▼桐ヶ谷ガード。水路もこのガードをくぐっていたのかどうか…

【訂正】桐ヶ谷ガードが道路として使われるようになったのは1962(昭和37)年のことだそうで、そのときにはとっくに暗渠になっていたはず。ということは、水路がこのガードをくぐることはなかったでしょう。取り急ぎ訂正です。

【中野の歴史10-2】東中野駅、開かずの踏切30年物語
https://www.visit.city-tokyo-nakano.jp/category/walking/history/43037

まちの歴史 | 東中野四丁目町会
http://city.higashinakano4.jp/history.html

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▼なぜ過去のあたりの写真が少ない・・・桐ヶ谷ガードから日本閣の脇を抜けたところから南側を写したもの。このあたり(たぶん左側の歩道のあたり)に水路があった、はず。

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▼同じ地点で北側を写したもの。全体に左から右に傾斜しています。右に進むと神田川に突き当たります。正面、横断歩道の先に数人の人がいるあたりに水路が続いていた、はず。ちなみに、角のお店は話題のラーメン店のようで、入店待ちのお客さんが待機しているのです。

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▼ここから先は、なだらかなカーブと・・・

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▼道路の東側の土地が、道路より一段下がっていることのほかに、水路跡だと言うことを想像させるものはありません。

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▽けやき公園。水路跡と言っていいのは、せいぜいこのあたりまで、かも。

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▼ただ、この少し先に「水神之碑」という石碑があります。

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▽碑が建てられたのは昭和36年(1961年)。谷戸川支川はとっくに暗渠になっていたはず。一方、神田川の流路修正はおそらくこの頃なので、どちらかというとそちらに合わせて建てられたもののような気がします。

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・・・このように、なんとも締まりのない水路行となりましたが、今回下調べの過程でいろいろわかったこと、実際にこの周辺を歩いてみてわかったことがいくつかありますので、それらのついては別の記事で。先週は、5回の昼休みのうち3回を、このあたりの探索に費やしたのでした。上の地図は、その別の記事でも使います。

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東中野今昔物語
http://higanaka.sakura.ne.jp/konjak.html
http://higanaka.sakura.ne.jp/konjak/konjak001.pdf

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【2018/2/18追記】

桐ヶ谷ガードの件、東中野駅は通勤でずいぶん使って、新宿寄りのホームの端から見える踏切らしきものも、何百回も見ているのに、何も疑問に思ってませんでした。あれが旧・桐ヶ谷踏切の名残だったんですね。

▼線路の北側から南方向。下り快速が通過中。

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▽線路の向こう、右側の白い建物が交番。たぶん昔と場所は変わってないのでは。

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▽ホームの端が見えます。北側はフェンスで出入りはできませんが、南側には門があって出入りができるようになっています。工事用車両の出入り口だと思っていたのですが。

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▽踏切の跡だったんですね。

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【お昼休みに暗渠】中野区小滝町の煙突

(承前) 【お昼休みに暗渠】谷戸川の支川
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-284a.html

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暗渠につきものの銭湯ですが、谷戸川の支川(中央線以北)のそばには、2本の煙突が見えます。地図記号としてはあくまで「煙突」なので、直ちに銭湯とはいえません。この2本の煙突については、ちょこっと調べたぐらいではわかりませんでした。

このあたりの神田川のそばは工場が立地していたようで、工場の煙突ではないかとみています。

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▼煙突(1)のあたり。東方向を向いて写しています。左奥は亀齢(きれい)橋。

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▽少し進んで西方向の写真。この道だけ、どういうわけか鍵の手になっています。「ここ、昔銭湯だったんだよ」って言われたら信じちゃいそうなロケーション。

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▽鍵の手の突き当たりの所とそこの向かいのマンションの名前を見るとわかるのですが、以前は「百万石醸造」の工場があったようです。いまでも本社がここにあります。その工場の煙突だったのでしょう。

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▽神田川に接するあたり。うーん、なんとも・・・

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▼もう1箇所は、いまはJRの独身寮。

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▽谷戸川の支流と神田川をつなぐ水路があった、というような記述を見かけるのですが、ここもそうだったのか?

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▽革靴というのがなんとも昼休み。このぐらいの幅で境界標が設置されていると、水路跡!と思ってしまう所なんですが…

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▽・・・たぶん違う。上の境界標から伸びたところは、バイクが置かれている未舗装の部分。それとは別に暗渠のふた。ということは、上の境界標は水路とは無関係、かと。

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▽この建物の前も、おそらくJR(旧・国鉄)の何かがあったところだと思います。銭湯ではなさそう。

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▽水路の跡が神田川に向かって続いています。

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▽突き当たりは神田川の護岸。この付近、神田川(旧・神田上水)の流路変更があったところで、この建物もそうですが、その痕跡を見ることもできます。それについては別の記事で。

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▽あと、この道路はJRの敷地と私有地の境界になっているのですが、境界標は複雑に設置されていて、簡単ではなさそう。写真はたくさん撮りましたが、素人がどうこう言えるようなものではないようです。でも、気になる。

2018年2月11日 (日)

【暗渠】えんが堀 (西武池袋線以南)

(承前)2016年8月16日(火) えんが堀(南の半分)
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.803501199786913.1073741857.100003811201990&type=1&l=b9400252f8
https://www.facebook.com/plugins/post.php?href=
https://www.facebook.com/mochizuki.kazuo/posts/804277346375965
http://egotadp.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-c8e5.html

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2016年8月に、たまたま「えんが堀」らしき水路跡らしきものに遭遇。そのときの写真をアップし、地図も作ってアップしました。そのときの地図。

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当時答え合わせに使った「川の地図辞典」でも、起点は西武池袋線の線路のあたりになってました。その起点に接するように、線路際の側溝がつながっていて、暗渠になる直前のルートはこのようなものだったのかな? と推測していました。これが地図の青色の点線の部分です。

ただ、西武池袋線の開通は1915(大正4)年のことで、それでもって流路が変更されるというのもおかしな話です。

記事をアップしたあと気になって、9月に線路の南側に向かってみました。すると、はっきりした水路の痕跡があり、南東方向に続いているのを見つけました。

▼線路の南側から北西方向。電柱が斜めに並んでいるのが、前回たどった終点=水路の起点のあたりです。

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▼少し引いた写真。線路の下をを斜めに横切っていたはずです。

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▼そのまま後ろを振り返ったところ。右奥に細い通路が続いています。

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▼南東方向に続いています。

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▼緩やかなカーブとマンホール。

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▼写真ではわかりにくいのですが、正面の建物の敷地も緩やかにカーブしてます。

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▼土地の境界標が、若干込み入って設置されてます。点線Aより右は豊島区道。では、点線と点線の間は・・・?

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▼とりあえず、元は水路であったであろう通路が続いています。

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▽このときは珍しく自転車。コインランドリーで乾燥機を使っている間の30分で確認に行ったのでした。

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▽左は駐車場。舗装の色が微妙に違う部分が水路跡。

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▽道路の縁石の途切れ具合がなんとも微妙。というのもこの水路跡は、豊島区と練馬区の区境でもあるのです。

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▽その微妙な部分の拡大。点線Aより上は練馬区。点線Bより下は豊島区。点線の間は水路跡。水路跡だから、いまでも国有地?

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★猫と暗渠

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▽ゴールが近いのを思わせる雰囲気。

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▼ゴールです。

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▼千川通りです。そうです。水路跡は旧千川上水につながっていたのでした。

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ゴール・・・と思ったのは実は微妙に間違いで・・・今回歩いたのは緑色の矢印の部分です。地図は「東京時層地図」から拝借の戦前のものです。

水路跡が、千川通りに突き当たったところで旧千川上水に合流していたと思ったのですが、水路はそこで左折。千川通りが直角に曲がるあたりで合流していたのでした。ただ、旧千川上水も、えんが堀の延長部分も、今となってはまったくその痕跡を見つけることはできません。

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引用した地図が戦前(1930年ごろ)のものなのも、延長部分が記載されているのはこの頃のものだけで、戦後(1960年頃)のものでは、えんが堀は西武池袋線以南だけでなく、線路から北の方にしばらく行ったところまで、すでに暗渠になっていたようでした。

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・・・ということで、えんが堀の南半分について、再確認までしたのに記事が曖昧なままになっていたのが、ずっと気になっていたのですが、ホッとしました。

あとは、まだそれとして見に行ってはいない北半分を訪れたいと思います。

ただ、支流がいくつかあるのと、上の地図を見てもわかるとおり、時代によってどの川に接していたか、変遷があるようです。行き当たりばったりじゃなくて、下調べが必要なようです。












2018年2月 6日 (火)

【お昼休みに暗渠】谷戸川(の一部)

それとして水路や暗渠を歩くのも、最近は難しいのですが(時間的に、体力的に)、昼休みに歩ける範囲にいくつか暗渠があるので、行ってきました。まずは谷戸川(の一部)です。

谷戸川は2011年の夏に、通しで歩いたところです。上流に向かって歩いているので、写真の順番と流れの方向に違和感があるのですが、そこはご容赦ください。

▼東京工科自動車大学校から南を見たところ。奥のガードはJR中央線。中野駅が右の方にあります。

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▼東京工科自動車大学校の角。水路跡の特徴のひとつに公衆浴場の存在がありますが、撮影のために立っていたポイントの真後ろに「文園湯」という2006年まで銭湯があったそうです。

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▽1960年頃の地図。文園湯を示す記号がしっかり。そして、この頃は、源流からこのあたりまでが暗渠化されていた模様。東京時層地図から拝借。

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▼東京工科自動車大学校のあたりから西の方を見たところ。水路は道の右端、概ね矢印のあたりにあったのでは、と思われます。

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▼というのも、手前の白い集合住宅と奥の薄茶色の家とで、道幅に差があります。手前の家がセットバックしたわけではなくて、水路を埋めた分道が広がった、というわけです。

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▼上の写真で水路が向きを変えるところ。ここからしばらく、水路跡らしい雰囲気がしばらく続きます。

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▽新しい建物は、玄関が道(もとは水路)の方を向いていますが、たいていは建物の裏に当たります。

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▼左右の道路はもみじ山通り。道をはさんで手前は中野六丁目(旧・文園町)、奥は中野五丁目(旧・天神町)。水路は中野天神のあたりでちょっと怪しくなって、その先でまたはっきりとします。

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昼休みに歩ける範囲では、このあたりが限界。歩いたコースはこんな感じです。

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上の地図に重なる昭和22年頃の航空写真。

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ところで、谷戸川の源流は、中野駅北口のライフとかハラーズがあるあたりのようですが、飲食店が密集するこのあたりのどこが源流なの? と言いたくなるほど想像がつかないのですが、きちんと調べてくれている方が、やはりいらっしゃるものです。

A Midsummer Night's Hole | 中野駅前から神田川方面へ流れる暗渠上散歩。http://misomax.blogspot.jp/2010/10/walk-on-culvert-nakano-station-to-kanda.html

文園湯
http://www5a.biglobe.ne.jp/~furo/fumizono/

Fumizonoyuhp

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【2018/2/11追記】

谷戸川の源流のことを書いたら、昨年の猫と暗渠のトークイベントでお話を伺ったnama (@nama_kaeru) さんに、さらに詳しい情報を教えてもらいました。リンクを貼っておきます。

https://t.co/ATPi4n7658
https://twitter.com/nama_kaeru/status/961245425335394304

https://twitter.com/nama_kaeru/status/961245425335394304https://twitter.com/nama_kaeru/status/961245425335394304

2016年8月16日 (火)

えんが堀(南の半分)

先日facebookにアップしたえんが堀の写真の撮影地です。
青色の実線、点線がそれにあたります。緑色の線は千川上水の跡を示します(参考)。

Engaborimap

青色の点線の部分=西武池袋線に沿った部分は、もともとのえんが堀ではなく、西武池袋線が敷かれてから作られた流れと思われます。実際には線路をくぐって南の方に伸びていたようです。

さくら小学校は2002年に千川小学校と大成小学校が統合されたもので、元の大成小学校の場所にあります。大成小学校が開校したのは1952年ですので、1947年の航空写真にはまだありません。この当時はまだ農地がところどころに残っていたようです。

▼1963年の航空写真

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この写真の奥に見える建物は、「日本通運江古田流通センター」といいますが、1963年まで西武市場駅という貨物駅がありました。元は長江駅という名称で1945年に開業、都内の集められた屎尿がここに集められ、貨車で清瀬、狭山ヶ丘、高麗の各駅に送られ、肥料として利用されたとのことです。

西武池袋線は開業当時「西武農業鉄道」という会社が運営していましたが、この社名はこのことに由来します。1953年に屎尿の輸送は終了し、名称が西武市場駅と改められましたが、どのように使われていたのかよくわかりません。

▼1947年の航空写真

Engabori1947

ちなみに1963年の航空写真の左下隅に大きな建物が写っています。現在はクレディセゾン(旧・西武クレジット)の「ユビキタス東京」があるところです。以前、この建物の写真について「西武百貨店江原町店」のキャプションがついたものを見たことがあるのですが、これもさっぱりわかっていません。

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